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占い師、大道芸人、イベンター:KEIさん。
普段は、下北沢駅南口でタロット占い師をやっているそうです。
当サイトコラムライター:sinさんが言うには「占いよく当たりますよぉ」という事らしいです。
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PROFILE
NAME:けー
年 齢:27歳
血液型:A型
星 座:乙女座
出身地:北海道札幌市
在住地:東京
好きなもの:嫌いなもの以外全て
嫌いなもの:嘘、余裕の無さ、納豆
好きな場所:海辺、都会、田舎。
趣 味:物語を読む、聞く、見ること。そこに少しだけ参加すること。
★出張占い:料金1件3,000円+交通費。
※出張占いは、メールにて受け付けます。
■ご意見ご感想ご質問はKEIまで
■KEIが運営参加のイベント情報はコチラ
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2004/3/6/SAT
[かど]
昔の神社には禍奴(かど)が、住み着いていた。
大きな四角い体に口だけを持ち、目は無く、足が2本。
体の色は古い和紙のような色。皮膚はざらざらとしていた。
普段はほとんど動かず、神社の隅でじっとしていたらしい。
近くに住む人たちは何か大きな事を計画した時、禍奴に御伺いを立てた。
自分がしようとしていることを大きな声で、時には密やかに、禍奴に話す。
事が問題を起こすだろう時、禍奴はその2本の足で立ち上がる。
そんなときはおとなしくしていた方が身のためだ。
事が良い方向に向かうだろう時、禍奴はその口で笑う。
そんなときは思い切って行動に移すといい。
禍奴と共に人々は暮らし、繁栄を続けてきた。
長年近隣の人たちに愛され続けていた禍奴だったが、
明治維新と共に姿を消してゆく。その詳細は謎につつまれている。
……「かどが立つ」ってどんなことだろうなんて考えているうちに、
こんなお話を思いついちゃいました。全てフィクションです。
怒らないでくださいね。「笑うかどには福来る」って言いますから。

2003/12/24/WED
-11〜12月のテーマ『私のクリスマスストーリー』-
[クリスマス・カロル]
毎年12月。街が緑と赤と白で溢れる頃、
ディケンズの「クリスマス・カロル」を読む。
スクルージ爺さんの夜を、目で読み、心で愉しむ。
はじめてこの本を読んだのは小学生の頃。
読み終わった時、人を心から祝福するということを知りました。
それから何年も何年も経って、曲がったり汚れたりしたところもあるけれど、
毎年12月にこの物語を読み返して、ほんの少し、大切なことを取り戻す。
そういえば、この本をはじめて読んだときは、
人の死をはじめて間近に感じた時でもありました。
葬儀場の控え室みたいなところで読んでいた覚えがあります。
二度と会うことができないという事実がうまく受け入れられませんでした。
それから何回か長い別れを体験したけれど、そんなことには慣れるわけがなく、
いつもいつも、同じ気持ちを繰り返す。
過去の幽霊も現在の幽霊も未来の幽霊も、何が大切なことかを教えてくれる。
そして、スクルージ爺さんは、素晴らしいクリスマスの朝を迎える。
そして、自分は、一年かけて忘れかけたことを思い出す。
現在。なんだかよくわからないけれど、金銭や暴力が溢れている。
個人にしても組織にしても、それ以上に大きな集まりにしても、
自分で自分に大きな鎖を巻きつけているようなもののような気がする。
そんな人たちに、三人の幽霊が訪れますように。
そして、皆様に、
良いクリスマスを!
そして、クリスマスとか関係無くても、良い日々が送れますように。

2003/10/9/THU
[電話の向こう]
まだ、携帯電話が普及していなかった頃のお話。
当時大学生だった自分のうちに、ある日の夕方、一本の電話がかかってきた。
若い女性の声が、自分のではない名前を呼ぶ。間違い電話だ。
「違います」と言っても何故か聞いてくれない。
しばらくして、彼女は間違えに気付く。
「あー。ごめんね。番号間違えたわ。じゃぁね」そう言って電話は切れた。
それから30分後、再び電話が鳴る。
「さっきはごめんね。でもねーあいつ居なくってさー」
急に話し出す彼女。あわてる自分。
…結局、一方的に話す内容からわかった事は、
・電話番号の末尾ふたつを入れ替えると、ある男の電話番号
・その電話番号の男とは体だけの関係で、本命の彼氏とは遠距離恋愛をしている。
・他にも数名、体だけの関係の男がいる
・人の話を聞かないタイプ
とりあえずその男がいなかったことに対する文句と、その他いろいろな愚痴を、
みっちり一時間ほど聞かされ、電話が切れた。
嵐のような言葉の波にさらされ、あんまり女の人の口から聞くことが無いような話を
散々聞かされ、ため息がこぼれた。まぁ、間違い電話だったし、
顔も知らない相手だから、二度と話すことは無いだろうって思った。
だけど、それから彼女からの電話は時々かかってきた。
二〜三日連続することもあれば、一ヶ月ほど間が空くこともある。
それでも定期的に、彼女は自分に対して一方的に電話をかけてきた。
自分はただ話を聞いて、相槌を打つだけなのに、
顔を知らない気安さも手伝ってか、彼女は様々なことを話してくれた。
ほとんどは、遠くにいる彼氏についてと、遊び相手の男の人との行為について。
しかもその内容は悪口中心で、とてもここでは書けないような内容の話ばかり。
遊び相手はころころと入れ替わり、その一人一人についての悪口は精緻を極め、
そこまで言われている男がかわいそうに思えるほどでした。
はじめの間違い電話から約一年。とうとう遠距離恋愛の彼氏との結婚を決め、
お別れの電話がかかってきました。「ありがとうね」彼女は言った。
「おめでとう」そう伝えて、最後の電話を切った。
結局、一度も会うこと無く、彼女は引っ越して行った。
顔が見えない一方通行のコミュニケーションは、そうして終わりました。
まだ、携帯電話が普及していなかった頃、そんな出来事がありました。

2003/9/5/FRI
[9月3日]
古くからの友人に、久々に会った。
相変わらずの馬鹿話をしたり、食事をしたり、お酒を飲んだり。
昼から会って、夜まで一緒に過ごす。
夕方頃からなんとなく違和感が生じていた。
何となく引っかかる程度だけれど、今までとは何か違う感じが。
話していても同意しきれなかったり、思い違いをしてしまったり。
昔と違うのは当然にしても、大事な何かが変わってしまった気がする。
それが自分なのか相手なのかは判らないけれど。
変化はあたりまえのことで、
お互いが成長だか退化だかを繰り返して変わり続けている。
それを踏まえて会っているのに、違和感を感じる。
決定的な何かが違っている気がする。
離れてから時間が経ったから違うのは当然。
なのに、一緒にいた頃の繋がりさえも変わってしまっている。
もちろん、たまにしか会えなくても、繋がっていられる人もいる。
そういう人は自分にとって本当に大切なんだと思う。
ただ、その時会っていた友人も自分にとって本当に大切な人だし、
これからもずっと連絡をとってゆきたいと思っている。
そう思うのだけれど、過去は過去で今は今。どうなるのかは正直わからない。
それぞれの未来にお互いが居るのかは、少し、疑わしいのかもしれない。
家に帰り、次の日の朝を迎え、気付いた。
本当はもっと前に気付いていたのに気付かないふりをしていた。
違う時間を積み重ねて、もう、ずいぶん離れてしまったことを。
積み重なった時間は、その根元にある時間にまで影響を与える。
あたかも、ずっとそんな人だったかのように、話される事実。
それは過去ならば鼻であしらわれる程度のことだったりもする。
その変化を思い知らされ、鏡像のように映る自分がそこにいる。
それは、こんな事実を自分につきつける。
ひとつ、歳を取ったんだな。と。
歳ってなんだかは判らないけれど、
確実に、ひとつ取りました。
おめでとうなんて要らない、誕生日の前日の出来事。

2003/8/29/FRI
[忘れられた物の国]
引越しを何度かしてきました。
一番初めは大学生のとき。
一番最近は、先月。
自分の部屋にはいつも少しずつものが溜まってゆく。
一番多いのは文庫本。少なくとも月に3〜5冊は増えます。
何かの折に持ってきたちらしやよくわからないおもちゃ。
手紙や葉書やCDやビデオテープや風船やシャボン玉。
引越しが決まって、荷造りをはじめるとき、
自分でも覚えていないようなものがあったり、
昔の雑誌をついつい読み返すなんてベタなことをしたりで
時間はどんどん引越しの日を間近に引き寄せてゆく。
ぎりぎりに、自分の場合はたいてい人の手を借りながら、
何とか引越しの体裁を整えて当日を迎えるのだけれど、
その時に捨てられてゆく物は思ったよりも多く、
引っ越した後に何ということも無いような満足感を得ることがある。
その満足感は無駄な物を省けた事から生じるものと、
自分がそれらの物が無い中でも生きてゆくことが出来ること。
このふたつの要素が絡み合って得られるのだと思う。
だけど、その時に捨てられていったものは、
その時の自分にとって何らかの意味を持っていたことは間違いは無いし、
それら無しでも生きていくことは簡単なのだけれど、
そうしなかった自分自身のカケラのようなものも一緒に捨ててしまっているような
そんな後悔の感覚を、引っ越した後に、ふと、感じる時がある。
何度かの引越しは、自分の成長に伴うものであって、
偶然ではなく必然の産物であることは重々承知している。
しているんだけど、捨ててしまった物の中にはけっこう大切な物も含まれたりしている。
無くても生きていけるのだけれど、その物の存在が自分の一部だったものもあったりして、
「思い出」なんて言うくくりの中に放り込まれて、後になって自己主張したりする。
その時は過去で、その物も過去の物で、
もうどうしようもないのだけれど、
何とはなく気になってしまう時がある。
何とはなく思い出してしまう時がある。
結局、それは一瞬の熾き火の様なものだから、次の瞬間は忘れられてしまう。
忘れるわけじゃなくても、過去の自分として割り切ってしまう。
別に本当に無くて困るものではなくても捨てた後で思い出される物達。
物に付随している過去の思いと共に捨ててしまった物達。
そういった物は、その後どこに行くのだろう。
ゴミ処理場なんかには行かずにどこかに集まっているような気がしてならない。
引越しやいろんな事情で捨てられてしまった物の国が、どこかに。
その国にあるたくさんの物は、自分を捨てた人のことを恨んだり懐かしんだり、
いつかまた戻れることを夢見たり、世をはかなんでやさぐれたりしている。
その国は過去から今までの全ての捨てられてしまった物がいて、
毎日広場の隅なんかに集まって昔話なんかしたりしている。
ある日、そこに自分が迷い込んだらさぞかし困惑することだろう。
自分が切り捨てた過去と対面しても、どうにもならないことが判っているから。
捨ててしまった物には捨ててしまうだけの理由があったのだから。
ただ、時々ふと思い出すそれらの物達とそれらの物達が持っている思い出が、
取り返しのつかないその過去を責めているような気がして、
何となく不安になる。
だけど、自分が今、立っている場所は、そんなたくさんの過去の積み重ねで、
それは後悔の積み重ねではなく、今の自分の中にある全て。
取り返しのつかない過去なんて無いし、捨ててしまった物達がいたおかげで、
今の自分が今この場所にいることができる。それは本当に素晴らしい事。
遠い遠い、忘れられた物の国で、自分の捨てた物達は、きっと楽しく暮らしているはず。
確信めいた自信を持ってそう言える。
経験という名前に変わって自分の中に住む、捨てた物達の一部がそう言っているから。

2003/7/11/FRI
[映画館の時間]
先日「シカゴ」を観に、映画館に行ってきました。
最近の映画館は、すごいんですね。
いわゆるシネマコンプレックス。
全席指定で並ばずに入ることができるし、
ふかふか椅子の肘置きにはドリンクホルダー。
前後の高さも充分にあるから、背の高い人が前に来ても平気で、
後ろの人に気を使わずにすみます。
少し贅沢な気分で、切り取られた時間を愉しむ。
同じ映画でもうちで観るのとはやっぱり違う。
便利な世の中になって、何でも簡単にできるようになったけれど、
のんびり座って大画面に繰り広げられる物語を味わう。
それはとても簡単で、心地の良いこと。
小さな頃は映画を観に行くことはとても大きなイベントでした。
大人に連れて行ってもらえる映画館は夢のような空間で、
映画館にあるもの全てが輝いてみえました。
二本立ての映画だと、幕間にアイス売りのおじさんが場内を回ったり、
食べるもの見るもの聞くもの、どれも日常の外にあるものでした。
一人で暮らし始めて、レンタルビデオを利用するようになって、
映画を観ることはとても簡単になりました。
ただそれは情報を摂取するだけで、物語を知ることはできるけれど、
本当の意味での映画を観るのとは違うのかもしれません。
雑誌やネットで映画を探し、
映画館に足を運び、
ジュースやポップコーンを買って、
やわらかい椅子に身を任せて、
二時間ほどの時間を過ごす。
面倒臭い事も毎日の事も全部忘れて、
映画館で過ごす。
それは自分にとって、
けっこう贅沢で大切な事のひとつなのかもしれません。

2003/5/27/TUE
[未来の選び方]
ここにも何度か書いていますが、自分の職業は占い師です。
タロットカードを使って、人の過去とか今とか未来とかを観るのが仕事です。
占いに現われるのは、その人の持っている選択肢であって、
大きな流れや外的要因があったとしても、何を選ぶのかはその人次第で、
占い師側からどうこう指図することでは無いと思っています。
昔々。苦しい恋愛をしている人が自分の占いに来ていました。
彼女を取り巻く環境も、彼女自身も、その恋を選ぶことによって
心も体もへとへとになっていました。
カードをならべると、悲しいほど救いの少ない状況になっているのが観えてきました。
その頃の自分は占いを仕事にすることを決めたばかりだったので、
そのあまりにもせつないカード達をよむ事を躊躇してしまいました。
言葉の出ない自分に、彼女は寂しそうに微笑んで言いました。
「悪いんでしょ。分かっているから遠慮しないで言って」
正直に彼女の今と未来の持つ可能性達を話しました。
今の状態が彼女にとってきびしい状態であること、
その状態がしばらく変わらず、精神的な負担が大きくなってしまうこと、
もしも恋愛運そのものを良く変えてゆきたいのなら、別れた方が早いこと。
そして自分にわかる限りの色々な事をを彼女に話しました。
占っていた自分の方が、彼女よりも悲しそうな顔をしていたのでしょうか。
「その通りだけど、私は大丈夫だから。ありがとう」
そう言い残して、彼女は帰ってゆきました。
それから半年後。再び彼女を占うことになりました。
カードを広げて現われたのは、半年前とあまり変わらない状況でした。
「変わってないでしょ。でも、いいの」
彼女は以前よりも少し疲れた顔で、以前と同じように微笑んでいました。
自分は彼女の幸せがどこにあるのかをみつける手助けはできなかったのでしょうか。
そう考えることは驕りだったのでしょうか。
彼女との出会いによって、いろいろな事を考えました。
自分にできること、自分にできないこと。
そこにある状況を観ること。少し先の状況を話すこと。
答えを出すのではなく、選択肢を知ってもらうこと。
それがベストなのかは分からないけれど、
そうやって現在の自分のスタイルができあがってきました。
あの時より少しは経験が増えた分、あの時より少しはマシな占い師になれてたらいいな。
そう思いながら日々を過ごしています。
あれから数年が経って、やっと観え始めたこと。
誰かに何かをしてあげられる。そんなことは考えない。
ただ、できるだけの事をできるだけきちんとしてゆくだけ。
わかる限りの言葉をさしだして、それをほんの少しでも受け取って欲しいとは思う。
それは都会に降る雪のように、すぐに溶けてしまうものだから。

2003/4/8/TUE
[美味しいパスタ]
昔々、遠い国での物語。
時は17世紀、場所はドイツ南西部。
前に一度紹介した、ミハエル・カスタドルフ伯爵のお屋敷でのお話です。
乳製品や卵を使った料理の体系をつくりあげたことで知られる彼の領地の隣を、クラウツ・マスターバーグ男爵という貴族が治めていました。
カスタドルフ家とマスターバーグ家はどちらも古くから続く名家。
地所が近いこともあり、交流も続いていた。ただしそれは、先代までの事。
元々仲の良かったふたりの両親は、小さな頃からお互い切磋琢磨しあう良きライバルでした。
しかし、大人になって爵位を継いでからは、小さな争いが絶えず、ミハエルとクラウツが成人する頃には互いにいがみ合うまでになってしまっていました。
ミハエルとクラウツがそれぞれの地所を継いでも、隣り合う両家は何かと張り合い、カスタドルフ家があのカスタードクリームを作り出したすぐ後に、ミハエルは自らの荘園でとれる
作物からマスターバーグソースを開発しました。この黄色に輝く辛いソースは、現在ではソーセージなどに欠かすことの出来ないマスタードソースの名で親しまれています。
両家は何人もの料理人を抱え、より美味しいものを創らせては自分の優位を近隣に誇ろうとしました。
料理人の引き抜きやスパイ活動もあたりまえのように行なわれるようになってゆき、しだいに状況はエスカレートし、毎年一度、両家の料理対決が行なわれるまでになりました。
そんなある日。カスタドルフ家のお抱えの料理人の一人、ハンス・カルボナウアーは恋の悩みを抱えていました。
相手はなんとマスターバーグ家の料理人、フランシスカ。彼女は母親の代からマスターバーグ家に仕えるシェフ。
ハンスは彼女を年に一度行なわれる両家の料理対決のときに一目見て、恋に落ちてしまったのです。
料理対決から一時も彼女のことが忘れられず、仕事も手がつかないような有様でした。
次の年の料理対決の日。カスタドルフ家は得意の生クリームを使ったオムレツを。
マスターバーグ家は荘園でとれる小麦で作ったパスタ料理を用意していました。
ハンスは生クリームに卵を落として混ぜ合わせ、よく焼いたベーコンとタマネギを入れ、ふわふわのオムレツを作り上げるはずでした。
しかし、フランシスカに見とれていた彼は何を思ったのかそのボウルを持ったまま彼女に近づき、茹で上がったばかりのパスタを自らのボウルに入れて大きな声でプロポーズをしました。
二人のこれからが一つになるよう、気持ちを込めて。
目が点になっているフランシスカ。
何が起こったのか良く分からないミハエルとクラウツ。
一瞬の間のあとで、辺りは大混乱。しかし、伯爵と男爵はすぐに我に返りハンスを呼びつけました。
大事な対決を台無しにしたのだからどんな罰を受けてもしかたがないと思いうなだれるハンス。
その時、彼が混ぜ合わせたボウルを手に、ふたりの領主の前へとフランシスカが進み出ました。
彼女が捧げだすボウルから立ち上る食欲をそそる香り。それを思わず口にしたミハエルは驚きの声を上げました。
つられて食べたクラウツも、その美味しさに目をみはりました。
こうして料理対決はハンスとフランシスカの結婚式に変わり、愛の結晶であるそのパスタ料理は、ハンス・カルボナウアーの名をとって、カルボナーラスパゲティと名づけられました。
クリームとパスタをひとつの器でからませている時、そんな物語が浮かんできました。

2003/3/12/WED
-2〜3月のテーマ『My Gift to You』-
[星に願いを]
ぼーっと夜空を眺めることがあります。
好い月が出てるなー。とか、星と月と雲の加減を何となく吟味したり。
オリオン座の三ツ星の下の盲腸みたいな星雲を見つけてにやにやしたり。
年に何度か大きな流星群が通過します。
気がついて暇があれば見に行きます。
獅子座流星群、ペルセウス流星群、その他諸々…。
街明かりの少ない地域に行って、夜にふと目を上げると、
怖いぐらいの夜空に出会うことがあります。
天の川が肉眼で見ることが出来るぐらいの深い星空を。
身近な明かりにさえぎられる事無く降り注ぐ星の光は、
普段の馴染みある星座が判らなくなるほどで、あまりの星の数の多さに
自分が文字通り小さな存在であることを思い知らされます。
街中に住んでいると本当に大きな星しか見ることが出来ないけれど、
星の光に何度励まされて来たのかは数え切れません。
何億年も前の光を眺め、一瞬の流れ星に願いを託す。
そんな移ろい易さの中に自分の未来を託すとき、とても小さな自分は、
とても大きな「何か」の中に居ることを実感する。
理屈でも何でも無く、実感する。
その夜の夜空はその夜だけのもので、その夜空を眺めることが出来た自分は
大きな宇宙の中の小さな存在だけど、計ることの出来ないほど、
大きなプレゼントをもらった気持ちになれる。
毎日下ばかり見ている自分だったら見ることが出来ないその夜空に願いを託し、
明日からもっと自分の足で立っていられるように、小さな小さな誓いを立てました。

2003/2/5/WED
[夢と現実]
子供の頃から、ずーっと続けて見ている夢があります。
夜毎というわけではないのですが、それほど途切れることなく。
いつからか分からない位小さな頃から、その夢を見ていました。
ある街に住んで、友達と遊んだり、出掛けたり。
そんな普通の生活をしているだけの夢です。
その街は現実には無く、その友達は現実には居ません。
でも、夢の中の「現実」にその街が在り、自分は彼らと暮らしています。
近所の駅前に、中学一年の時にマクドナルドができた事も、
うちから40分ほどの所にあるターミナル駅の改装が4年前に済んだ事も、
その駅前のデパートの地下が本屋で5階が家具売り場で、
デパートの隣のホテルの落ち着いた内装や少し高級なレストランや、
郊外にある大きな遊園地のアトラクションの移り変わりや、
みんなで行った湖畔へのキャンプやドライブや、
大型ショッピングモールの開店による昔ながらの商店街の衰退や、
子供の頃から通っている地元の小さな雑貨屋とか、
もう一つの現実のように自分のそばに在る現実として、その夢があります。
この現実と同じようにその中で生活して成長しています。
向こうの友人も共に育っています。ある人はもう引っ越していなかったり、
高校の時に転校してきて仲良くなった人がいたり、いろいろな人がいます。
あたかも、この現実にある、他の街とも同じように。
そんな夢を、継続的に、今も、見続けています。
自分の中にある現実と外にある現実は等価であって
たくさんの人や物の意思がそれぞれの主張を持っていて、
それが時に絡み合ったりバラバラになったりするけれど、
フラクタルみたいにどこを見てもそれが世界になっている。
居場所は一点であっても全体になり得るから、心地が好い。
自分の知らない世界はまだまだ無数。
その無限に近い現実を少しずつ知ること。
それにより、自分の現実を広げること。
これが、今年の抱負になりそうです。

2002/12/24/TUE
[めでたしめでたし]
よく、飲みに行った先で職業を聞かれ、そのまま占い仕事をすることがあります。
彼女に初めて会ったのも、そんな何気ない一瞬だったのかもしれません。
三年ほど前に初めて会って、それから何度も彼女を占ってきました。
良い時期も悪い時期もありました。それぞれの時期に、自分はできるかぎり率直に彼女の置かれている位置と彼女が向かう先を占ってきました。
占った内容は、カードをしまった時に忘れてしまうのですが、その時に必要だったことを伝えることができていたらしいです。
その彼女が結婚することになりました。
その相手と一緒に飲みに来た時にも相性などを占っていたのですが、その内容も自分の中には残っていませんでした。
先日、結婚を決めた彼女に会った時、彼女は嬉しそうに結婚することを告げ、自分の占が当っていたって言ってくれました。
なんだかすごく嬉しいって感じました。
自分は、ただカードを読み、その人の行く末を伝えることしかできないけれど、それによって、その人が何かを変える事ができるという事実が、自分をほっとさせたんだと思います。
自分の未来は自分できりひらくもの。
近い未来までは観ることができるけれど、どれを選ぶかは自分しだいで、それを知ったことにより、より良い方向に向かった彼女の幸せそうな顔を見て、自分も幸せになることが出来ました。
結婚おめでとう。
末永くお幸せに。

2002/12/12/THU
[きりん]
きりんを見に、動物園に行ってきました。
この1ヶ月ぐらい、きりんが見たくて見たくて、
落ち着かないぐらいでした。
動物園はそれほど遠い場所にあるわけでは無いし、
その1ヶ月の間に映画に行ったり、飲みに行ったり、
時間的な余裕はあったのですが、行きたい行きたいと思いながら、
気付いたら1ヶ月の時間が流れてしまっていました。
良く晴れた、ある日、やっと、きりんを、見に行きました。
動物園は日曜日ながらそれほど混雑していなく、
家族連れやカップルでほどよくにぎわっていました。
高く青く澄んだ空の下、動物達はのんびりと寝転んだり、
草を食んでいたり、うろうろしていたり。
坂を登ったところに、きりんはいました。
低い柵にかこまれた広い場所に、シマウマとペリカンと一緒に。
きりんは、のんびりと、草を食んでいました。
じっときりんを見ながら、なんでこんなにきりんが見たかったのか、
どうしてこの一月、きりんのことを思っていたのか、考えてみました。
でも、答えは見つかりませんでした。
秋の動物園は心地よく、ゾウもクマもライオンもシカもヤギも、
平和な空気の中、のんびりとしているように見えました。
動物園に対する批判とかも承知の上で、幸福に過ごしていました。
きりんを見ることは、自分にとって、どんな意味を、持っているのか。
答えは、まだ、見つかりません。
ただ、きりんが見たかった。それだけだったんだと思います。
そこに自分がいて、きりんがいる。それがなんだか心地良い秋の一日でした。

2002/12/3/TUE
[書くこと]
久しぶりに、ここに文章を書いています。
ずっと、書きたかったのですが、書けなくなっていました。
言葉について、ずっと考えていて、ばかみたいに考えて、
結局、やっと、書き始めることができました。
もともと本を読むのが大好きで、
自分も公の場に文章を書く機会を得ることができて、
いつも嬉しく書いていました。
ただ、自分の文章を読み返すにつれ、
それが自分の大好きな文章達に比べてあまりに申し訳無い物になっているような気がしてしまって、書くことができなくなってしまいました。
試行錯誤を重ねてなんとか更新をしようと思っていても、
自分の書き綴った文章に納得ができなくて、消去してしまう。そんな日が何日もありました。
秋も深まったある日、半年ほど連絡の無かった友人が電話をかけてきました。
「最近、書いてないけど、どうしたの?元気?」
それを聞いて、なんとなく分かった事がありました。
自分は、ここに、その時のせいいっぱいの文章を綴ります。
それは、未だ拙いものではあるかもしれませんが、
それを読んでくれる人がいるかぎり、せいいっぱい書いて行きたいと思います。
顔を会わせることのできない誰かが、
それを読んでくれているなら、それはとても幸せなことだから。
ずっと書かずにいて本当にごめんなさい。
自分はここに居ます。それだけかもしれませんが、
あらためて。
よろしくおねがいします。

2002/9/6/FRI
[夏の終わり、秋の初め]
あと数日で、誕生日を迎えます。
この歳になるまで、それなりに色々なことがありました。
この部屋に引っ越してきてから、もう三年が経ちました。
その三年の間にも、それなりに色々なことがありました。
でも、誕生日が来るって言っても、一年の他の日と何の変わりも無いし、
自分に何か大きな変化が起こるわけでもないのはわかっています。
ただ単純に、自分の歳の分だけ昔のその日に自分が生まれたってだけです。
なんとなく、そんなものかなって思ってました。
たとえば、蝉。夏に鳴くあの蝉です。唐突ですが。
土の中に何年も幼虫の姿で過ごして、
その後、土から出て蛹になって、成虫に変わる。
で、一週間ぐらいミンミン鳴いて、死んでしまう。
地上に出てきたとき、脱皮しているときに、
蝉は一体何を考えているのか考えてみました。
まずは、地上に出たとき。
その空気の鮮烈さ、風の心地よさ、音の豊富さに驚く。
土の中との環境の変化の大きさに多少の戸惑いを見せるも、
更なる変化、成虫になることをこころざし、上を目指す。
ある程度の高さまで登ったところで、脱皮の準備にとりかかる。
幼虫の頃とはあきらかに変わってゆく体。
少しずつ硬くなる表皮と外に出たがる自分の心。
そして、脱皮が始まる。
白くて柔らかい、新しいからだが、ゆっくりと、外に出てくる。
脱皮の間は、そのことだけで手一杯で、何も考えられない。
やっと一息つけるのは、からだ全部が外に出てきてから。
殻から全身が出て、その殻に並んでひとやすみ。
まだ羽根も伸びきっていない新しい体に馴染むために、
朝が来たら、力強くはばたいて、精一杯鳴いて、一週間を生きる為に。
蝉は、土から出て、脱皮して、飛び立って行きます。
自分よりも短い時間しか生きていることが出来ないのに、
脱皮するその姿には、心に響く何かがありました。
それを、うちの玄関先で、いつまでも見つめてしまいました。
夏の終わり、誕生日を迎える少し前。
蝉に教わる毎日の大切さ、尊さ。
これからの新しい一年をもっと大切に生きる為に。
うちのドアのすぐ横で、この夏、五匹の蝉たちが、旅立って行きました。
でも、ちょっとびっくりしました。うちの玄関で五匹も脱皮するなんて。
五匹も脱皮するなんて。

2002/5/15/WED
[甘い幻想]
甘い食べ物が、大好きです。
生クリーム、チョコレート、キャラメル、つぶあん、などなど。
なかでも、とても好きなのは、カスタードクリームです。
カスタードクリーム、カスタードクリーム。
その甘美な黄金色のクリームさえあれば、
他に何もいりません。って言うのは大袈裟ですけどね。
今回のお話は、17世紀のドイツでの物語です。
ドイツ南西部に、ミハエル・カスタドルフ伯爵という人が住んでいました。
彼はその広大な荘園の中で養鶏と牧畜に力を注いでいて、
主に効率的な鶏卵の獲得や乳牛の健康的な飼育で知られていますが、
彼の一番の業績は、卵と牛乳を使った料理レシピを作った事です。
その魅惑レシピの全てに卵と牛乳がふんだんに使われており、
その料理の影響は現在の西洋料理全体に今も色濃く残っています。
なかでも目を引くのは、お菓子に関する記述です。
彼の娘が五歳になった誕生祝いに作られたクリームが、
その後のお菓子業界に大きな革命をもたらしました。
娘に自分の仕事を知ってもらいたいと思った伯爵が、
卵と牛乳をふんだんに使って作られたそのクリームは、
カスタドルフクリームと呼ばれ、ヨーロッパ全土にに伝わってゆきました。
そうしてカスタードクリームが生まれましたとさ。
もしもこんな由来があったら、もっと好きになっているだろうな。
シュークリームを頬張りながら、そんなことを頭の中で考えてみました。

2002/4/10/WED
[人の間、自分の中]
今までを振り返ってみた。
いろんな人に会ってきた気がする。
生まれてから、幼稚園、小中高大学、
いわゆる社会人になったり、色々して今に至る。
その間に一体何人の人達と言葉を交わしたのだろう。
その中の何人が自分のことを覚えているのだろう。
何かの縁があって出会って、話をしたり、
遊んだり、仕事をしたりして、人と関わりを持つ。
一度しか会わなかったり、しばらく一緒に居たり、
会わなくなってまた再会したり、いまだに付き合いがあったり。
その人ごとに千差万別の関わり方をしてゆく。
その中には、これから二度と会うことが無くなった人達もいる。
理由は色々あるのだろうけれど、互いの生活が二度と
交わることの無い人達。
最後の別れの瞬間も意識せずに離れていった沢山の人達や、
辛い思い出を伴って別れていった人。
その時々で、関わりを持てた人達のひとりひとりに
大きさの違いはあれど、影響を受けて生きてきた。
出会いのひとつひとつが現在の自分を形作っている。
今までも、これからも、たくさんの人達と出会って、別れてゆく。
嬉しさも悲しさもひっくるめて、出会って、別れてゆく。
もう決して会うことのできないあなたへ、さようなら。
これから出会うことになるだろうあなたへ、こんにちは。
そして、今、知り合えているあなたへ、ありがとう。
これからもよろしくおねがいします。

2002/3/22/FRI
[天動説]
天動説を、信じてみましょう。
異論は色々あるとは思いますが、
おもいきって、信じてみましょう。
まず、地動説が正しいと思われている理由。
天体の動きの中心を太陽と考えると、各惑星の軌道が、
シンプルな(ケプラーの法則に因る)動きで表す事ができる。
地動説の考えを採用する事により、惑星の軌道が単純な楕円軌道を
描くことになるので、、確かに納得はしやすい。
しかし、厳密な計算によると、ケプラーの法則や、それによって導かれた
ニュートン力学には微妙な誤差があることが分かっていて、
誤差があるからには、それを鵜呑みにするのは危険だと思われる。
では、天動説について考えてみよう。
毎日の生活の中で、地球が動いていることを意識することは
まず無いことで、直感的に地動説より納得できる。
惑星の動きは、現在の科学で証明できないほどの複雑な軌道を
描いていると考えて、天体の動きは、北極星を中心としているから
地球が動いていなくて天体全体が動いている事に異議を挟む余地は無い。
つまり、地動説よりも天動説の方が、生活密着型天体理論である。
だから、天動説を信じるのが、より自然な人間の有り様である。
こう言いきっても差し支えが無いのではないだろうか。
かなりアバウトな知識ですが、おおまかにはこういった理由で
天動説を信じてみようかと思いました。
人間の感覚は、曖昧さを含んでいて、目に見えないものは
理屈で信じようとしてしまう。でも、信じたいことを信じることが大切。
まずは、見つける事。疑う事。そして、信じる事。
天動説、地動説、どちらを信じますか?
それとも新しい何かを信じますか?

2002/3/8/FRI
[卒業の後]
いちばん最近の卒業式は、大学の卒業式。
それから何年か経ったけれど、今の自分の状況は、
卒業式当時には思いもしなかったもので、
ただ言える事は、当時おぼろげに考えていた大切なものが、
今更ながら少しづつ見えてきた気がします。
卒業式。その時、「大人になる」って事を考えていました。
それは別に、嘘や妥協や社交辞令を覚えるわけではなくて、
今まで見えてなかったシステムが見えてきたり、守りたいものを
守ることができる強さを手に入れたり、広い視野と深い洞察力を
身につけたり、そんな大人になっていこうと思っていました。
卒業後、嘘や妥協や社交辞令の真っ只中で少し生活して、
学生時代に考えてたことなんかすっかり忘れていたけれど、
最近になって、フリーで占い師の仕事をしながら生活する中で、
もっと大人になりたいっていう気持ちが、再び強くなってきています。
卒業式は、過去のものになっていても、
卒業の後に目指した自分には、なかなか成ることが出来ません。
だけど、見失うこと無く少しずつ近づいて行ければいいはずだから、
のんびりあせらず暮らしていく中で、目指して行けばいいはず。
大事なことは、きっと見えてきてるはずだから。
卒業式の日に抱いた思いを、いつまでも忘れませんように。
少しだけ分かり始めた大切なことを見失いませんように。

2002/2/27/WED
[景色と想い]
北海道の傍にある小さな島。
のんびり歩いても一周三時間ほどで周れてしまう。
特に目立った特色も無く、他の離島よりも観光客は少ない。
少し横長のじゃがいものような形をしていて、
人が住んでいるのは、島の南西部のみ。人口は500人ほど。
これは、大学に入って二年ほど経った頃、その島へ行った時の話。
フェリーの乗客は三人。自分と二人の老人。二人は島の人らしく、
漁船に毛がはえた程度のそのフェリーの中で話しこんでいる。
どちらも話しかけてくる様子は無く、自分は所在無く海を眺めていた。
島に渡ることを決めたのは前日の夜。その日たどり着いた村の
観光案内に、絶滅しかけている海鳥の野営地だと書いていたから。
時期は冬の終わり。その海鳥がいる時期ではなかったけれど、
島に渡るフェリーの料金が安かったことと、少しでも人の少ない所へ
行きたかった自分は、一晩その村に泊まり、翌朝のフェリーに乗った。
フェリーを降り、シーズンオフで一軒しか空いていない旅館に荷物を置き、
島の北西部を目指す。歩き出して30分ほどで、人の気配が一切無くなる。
波音もやけに遠く感じられ、自分の頭の中の問題に再び直面する。
人の気持ちを裏切ってしまったり、誰かに傷つけられたり、
今考えると、あまりにも在り来たりな想いを抱えて、てくてく歩いていた。
けれど、その時は、それが世界の全てだった。
坂道を上りきると、突然目の前がひらけた。
深い絶壁の下に広がる海と、その絶壁に巣を持つ海鳥。
目に入った瞬間、今まで悩んでいた事が全て消え去るほどの景色。
どれだけの時間、そこに立ち尽くしていたのかは、分からない。
とにかく帰らなきゃいけない事だけは、何故か分かった。
そのままふらふらと宿まで戻り、何も考えず食事を取り、ぐっすり眠って、
また、自分の生活の場へと帰っていった。
その後、もう何年も経つけれど、悩んでいる人と話している時に、
不意にあの島の景色を思い出す。
自分のエゴも欲望も、人との間に起こる色々ないざこざも、
全部越えてしまうぐらいのものが目の前にあらわれた時、
自分も他人も関係無く、ただ景色にみとれることしかできなくなる。
そんな景色を伝えられたら、占いの仕事はもっと簡単になると思う。
占って、その人の現在も未来も悲しみや怒りに包まれているとき、
あなたに伝えたいのは、この景色ですよって

2002/2/19/TUE
[超能力]
先日、友達に誘われて、スプーン曲げをしてみました。
曲がれって念じながら、右手に持ったスプーンの先を
左手の人差し指で、手前に軽く引くと、曲がりました。
だけど、曲がったのはその一回だけでした。
それ以降、何度か試したけれど、スプーンは、曲がりません。
曲がらないスプーンを前にして、なんとなく、安心しています。
もし、曲げる力が強くなって、制御できなくなったら大変。
触れるだけで曲げてしまうようになってしまったら、
カレー屋でカレーを食べられなくなる。持つスプーンが曲がってしまうから。
アイスクリームを木ベラでしか食べられないし、
コーヒーに入れた砂糖を混ぜられなくなる。
ひょっとしたら、視力検査の目隠しまで曲げてしまうかも。
あぁ、考えるだけでも恐ろしい、スプーン曲げに潜む罠。
他の超能力だって、強くなったら大変だよ。
念写能力が強くなりすぎたら、記念撮影の度に遠くの風景が映るし、
透視能力が強いと、透けすぎて何も見えなくなっちゃいそう。
人の心が読めすぎたら、疑心暗鬼で外に出られなくなる。
予知が出来すぎたら、何もやる気がしなくなると思う。
超能力、無くて良かった。
自分のできることを、自分の納得のいくようにしていく。
訳の分からない力なんて要らないし、頼りたくない。
そりゃ、世の中うまくいかない事だってたくさんあるし、
力不足で悔しい思いをする事だっていっぱいある。
だけど、頑張ったり迷ったりしながら、進んでいく。
そうして生きているから、嬉しかったり悲しかったりする。
だから、幸せを感じることができるんだと思う。
強くても、弱くても、自分が自分でいられるのは、
超能力が無いおかげなのかもしれない。
そんな力は必要無いって思っている限り、
目の前のスプーンは、きっと曲がらない。

2002/2/12/TUE
[チョコの形をした想い]
バレンタインデー。
チョコレートがチョコレートでなくなる日。
そこに込められる想いは、感謝、挨拶、愛情など、さまざま。
その想いによって、チョコレートは何にでも変わってゆく。
あなたの望みは何でしょうか?
女の人は、チョコレートを渡すこと?
男の人は、チョコレートを受け取ること?
本当の目的はそんなことじゃないよね。
想いを伝えたくて、渡すはず。
想いを知りたくて、受け取りたいはず。
チョコレートの形をした想いを遣り取りして、
普段言えなかった何かを伝えたいのではないのかな。
全国そろって「チョコの日」ムードの2月14日。
虚像のような商業主義が、見え隠れしているけれど、
全国各地で飛び交うチョコレートの群れの中で、
ただ単に渡すだけ、受け取るだけにはならないように。
愛でも恋でも感謝でも夢でも希望でも真心でも、
本当の気持ちが、届き、届けられますように。

2002/1/28/MON
[踏み切る]
うちの近所の私鉄の踏み切りは、なかなか開かないことで有名です。
電車の多い時間だと、5分以上待つことも珍しくありません。
ぼーっと電車の過ぎていくのを待ちながら、ふと疑問に思ったこと。
「踏み切り」って、なんなんだろう?
線路があって、道路と交差していて、電車の通る間、遮断機を下ろす。
そこにあるのは・道路・線路・遮断機。この三要素のみ。
じゃあ、踏み切りって、何の事なんだろう?
走り幅跳びのとき、砂場の手前にある板。あれは、踏み切り板。
確かにあの板で踏み切って跳躍する。跳躍に踏み切るための板。
飛び箱の手前に置いてある物も、たしか踏み切り板だったはず。
でも、今問題になっている踏み切りでは、誰も何も踏み切らない。
ただ、電車が過ぎて行くのを待つだけ。
どちらかといえば、ネガティブな場所のような気がします。
だけど、あの場所を踏み切りと呼ぶのには、なにか意味があるはず。
普通に自分のペースで歩いているときに、遮断機にさえぎられ、
うるさい警報機の音を聞きながら、待っているだけなのは勿体無い。
「遮断機が上がったら、あの人に電話しよう」とか、
「会社、辞めちゃおうかな」とか、踏み切るための時間が与えられる。
ちょっと考えるための場所として有効な気がします。
そう考えたら、開かずの踏み切りに足止めされるのも悪くないかな。
ほおっておいた問題について考えたり、迷いを断ち切ったり。
遮断機が上がったとき、横のカップルの男が彼女に突然プロポーズ。
なんて場面に居合わせたり。
踏み切りで足止めをされた時に見えてくる大切なもの。
思い切って踏み切ることで分かる真実。
遮断機の鳴らす音は、自分に対しての警報なのかも。
「立ち止まって、考えてみて。そして、踏み切って」って。

2002/1/18/FRI
[大きくなったら]
テレビをなんとなく見ていたら、小学生の男の子が、
「大きくなったら何になりたい?」って聞かれて、
「コンビニの店員」って、答えてた。
何故だか分からないけれど、寂しくなった。
そこで、周りの人に手当たり次第、聞いてみました。
「大きくなったら、何になりたい?」って。
結果。
「外国で暮らしたい」「金持ち」「およめさん」「猫」「天使」「かっこいい大人」
「政治家」「光ゲンジ」「美容師」「宇宙飛行士」など、様々な答えを得ることができました。
ただし、質問した人の半分近くが「もう大きいから…」って答えていたことも書き添えておきます。
ただし、質問を繰り返しても、なぜか生まれた寂しさは、消えませんでした。
「大きくなった」事を認められる時は、いつなんだろう?
自分自身が「大きくなった」って気付く時っていつなんだろう?
充分大きく育っているのかもしれないけれど、まだまだ見えないことは
幾らでもあって、年々ほんの少しづつ見える範囲が広がってくる。
未知の領域に気付けば気付くほど、自分の小ささを実感して、
絶望にも近い想いを抱えたまま、ほんの少しだけ大きくなる。
その繰り返しが続く限り「大きくなった」なんて言いたくないし、言えない。
「大きくなった」時に「何になってる」か。そんなことは知りたくはない。
「大きくなった」時に「何になりたい」か。それが大切なんだと思う。
「大きくなった」時が、いつなのかはわからないけれど、
それは、ずっと先のことであればいいな。
年齢が三桁近くなっても「大きくなったら…」って思っていたい。
その想いさえあれば、どこまでも大きくなれるような気がするから。

2002/1/8/TUE
[出会い]
毎日、たくさんの人と出会います。
道を歩いてるときにすれちがう人、同じ電車に乗り合わせる人。
そのほとんどの人と何も話さず、顔も何も覚えていないまま、分かれて行きます。
顔を合わせている人の数はたくさんなのに、
言葉を交わす人の数のなんと少ないことか。
この世の中にはほとんど無数といっても良いぐらい人がいます。
その中で関わることの出来る人なんて本当に一握りです。
少し周りを見渡してみるだけで、自分の手の届く範囲だけでも
たくさんの人がいます。
せめて自分の手の届く範囲にいる人は、大切にして行きたい。
それはエゴかもしれないけれど、話も出来ないまま別れてしまう
無数の人達の中で、出会えたほんの少しの人達。
その一人一人に対して出来ることはまだまだあって、
「出会えた」事を感謝してもしたりないはずだから、
どうにかして大切にして行きたい。
何ができるのかって聞かれたら、何とも答えられないけれど、
それでも、どうにかしていきたい。
今年もたくさんの人達の中で、伸ばした手の先にあるもの、
触れるもの全てをなんとかして大切にしながら、過ごして行きたい。
まだまだたくさんの人に迷惑をかけたり、傷つけたり、つけられたり。
そんなこんなでも結果としてみんなと笑い合いたいな。
ってのが、今年の抱負です。

2001/12/27/THU
[ハンバーガー]
ハンバーガーって、ハンバーグがはさまってるから
ハンバーガーなんだよね?
ってことは「コロッケバーガー」って、変じゃないかな。
バーグが無いんだから、バーグが。だからあれは
「コロッケサンド」ってことになるはずだよね。
チキンタツタや、フィレオフィッシュなどは
バーガーを名乗ってない。それは当然のことだし、
ファーストフード的マナーにかなっていると思う。
バーグじゃないから、バーガーは名乗らない。
それぐらいのことが出来なきゃ人前には出せません。
フィレオフィッシュには独自の思いがあって、
自分が肉ではなく魚である事にプライドを持っていそう。
だから「フィッシュバーガー」なんて呼ばないようにしよう。
彼は言う「バーグなんてつけるな。私はハンバーグではない」
そんなフィッシュバーガーが好きだ。食べないけど。
とにかく。ハンバーグがはさまっているから
ハンバーガー。この姿勢を大切にしよう。
ものの名前にはそれなりの成り立ちがあるはずだから、
そのひとつひとつを大切にしていこう。
そう思って街に出た自分の目に、某ファーストフード店の
新発売の商品名が飛び込んだ。「生姜焼き定食バーガー」。
…もうつっこむ気にもなれません。

2001/12/19/WED
[年の瀬の何か]
時間は変わらないスピードで流れている筈なのに、
なんだかみんな急いでいる気がして、
自分も忙しそうなふりをしてみたり、
なんだか本当に急いでる気になったりしています。
占い師の仕事をしていて思うのは、
その時期の全体的な雰囲気が
その時期の占いの結果に反映されるという事実。
特に年末は独特の空気を持っているらしく、
観る人観る人みんな似たような結果が出たりする日もあります。
恋人を求める人には、クリスマスが、人生の
一大事でも有るかのような孤独感と焦燥感が。
仕事で忙しい人には、今年が終わるまでに
何らかの結論を得て安心感を得たい気持ちが。
確かに、占いに来る人には何らかの
困難を抱えている人が多いにしても、
毎年この時期に確実に顕われるある種の傾向は
一体何なのでしょうか。
一般化してしまうつもりは有りません。
一人一人がそれぞれの想いを抱えて生きていて、
自分はそのほんの少し先を覗いているだけです。
だけれど、あまりにも同じような結果が並んだときに、
ふと不思議な気持ちを抱きます。
12月の持つ魔力のようなものがそこにあって、
それが人を焦らせ、追い立てるのではないのかなって。
もうすぐ今年も終わり。
なんて考えてる時点でとらわれてるのかな。

2001/11/28/WED
[踊って頂けませんか?]
何てこともなく使っている言葉のなかに
なんだか不思議なものが隠れていることに気付くことがあります。
階段の間にある、踊り場。
そこで踊る人は誰もいないのに、踊り場。
少なくとも自分は、そこで踊ってる人を見た事がありません。
誰も踊らないなら、何のための踊り場なのか。
本来は、踊るための場所なのではないでしょうか。
階段の上り下りという単調な作業の中、
ふと出会った二人が、踊る。
並んで階段を歩いている見知らぬ二人が、
互いの労を労うが如く、踊る。
そんな場所なのではないでしょうか。
そんな場所にしていきませんか。
踊り場を通ったときに、偶然誰かに出会ったら、
少しの時間でもいいから踊ってみませんか?
言葉なんて無くても、踊りを通じて今までに無い何かが
見えてくるかもしれません。
照れててもいいから、思い切って踊ってみませんか?
そうしたら世界はもう少しだけあったかくなるのかもしれないな。

2001/11/22/THU
[自己証明]
はじめまして。
これからコラムを書かせてもらえることになりました。
思ったことを思ったままに書いて行きたいと思います。
自分は、仕事として、占い師をやっています。
それは、自分にとって自然なことであって、イラストが書ける。とか、マッサージが出来る。
とかと変わらなくて、大工さんが家を作るように、人の人生を観ています。
タロットカードにあらわれるその人それぞれの有り様や、過去や現在や未来を、そのままに、伝える。
そこには自分は無くて、出来る限り、よく磨かれた鏡程度には率直に読んで行くことが必要なんだと思っています。
神秘性やらオカルト的な要素をなるべく排除して、ただ純粋に、その人の今とこれからを読むように。
そんな占い師をやっています。
自分個人としては、興味の赴くままに色々なことをして行きたくて、
大道芸人をやったり、イベントを作ったり、旅に出てみたり、本を読んだり・・・といった生活を送っています。
そこにあるモノ、コトに隠れている物語をひとつひとつ拾いながら、毎日が過ごせれば
それは、ひとつの幸せの形なんだろうな。って思っています。
これからよろしくお願いします。

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