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| 中国語を使った仕事をしているNATSUさん。 やや放浪癖があり、ひまさえあればアジアをふらふらしてるそうです。 NATSUさんの世界観の引出しを一つずつ覗くことにしましょう。 |
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2002/5/31/FRI
[初夏の失恋]
あのひとにふられたのは、ちょうどこの季節だった。
朝晩は涼しいくせに、昼間は腹が立つくらい暑くなる、1年間でいちばん紫外線の量が多いと言われるこの時期に、大好きだったあの人は、私のことを好きじゃなくなった、と冷たく言ってのけた。
私はまだ十代だった。
色は華やかだけど、かたくて青くさい、熱帯の若い果実みたいな。
あのひとの態度がおかしくなった、と気づくのが遅すぎた。
バイトやら遊びやらが、しょっちゅう私と会えない言い訳になりはじめた。
ずいぶん先の予定をたててるのに、「今んとこ大丈夫」と言うようになった。
それまでは、私との約束が最優先だったのに、あのひとの「今んとこ」がキャンセルされるたびに、だんだん私の重要度ランクが下がっていってるのがよーくわかった。
アパートの前を通りかかったら自転車もバイクもあったから、家にいるだろうとドアをたたいても、出てくれないこともあった。
後から電話したら、「ああ、同じアパートの友達んとこに行ってた」と言われて、すんなり安心してしまった私。
そんな友達いないって、知ってたはずなのに、彼の言い訳に騙されたふりをした。
哀しい現実に気づくのを、無意識に先送りしてしまった。
あのときちゃんと自分にわからせるべきだった。
今その事実に目をつぶったって、いつかまとめて痛い目にあうのは私自身なんだ、と。
自分をごまかし続けているうちに、その日はとうとうやってきた。
ふられた直後、ひとりでいたくなくて友達のうちに行ったら留守だった。
しばらくドアの前で待っていたけど彼女は帰ってこなかった。
自分を出すのが苦手な私が、唯一泣きごとを言えるひとだったのに。
ふられたことより、私が必要としてるときに彼女がいてくれないことの方が悲しくて、ばかみたいにしくしく泣きながら帰った。
その日からごはんが食べられなくなった。
心配した母親が部屋に来て、どうしたのか尋ねた。
日頃、恋愛話はしない母娘だったから、今になって突然失恋話をするのも気がひけたし、何よりカッコ悪すぎてそんな話はできなかった。
黙って首を振り、涙を膝に落とすだけの私を、母は心配そうに見つめた。
腫れた目を冷やすようにと、氷を包んだタオルを持ってきた母は、何も聞いていないのに、ぼそぼそと話し始めた。
高校時代の母は、親戚の家に下宿していた。お弁当に白いごはんと魚肉ソーセージが二切れしか入ってなかったり、電話をとりついでもらえなかったり、ひそかにいびられつつも、それなりに楽しく暮らしていた17歳。
ところがある日突然、つきあっていた彼氏にふられてしまった。
おまけに彼はすぐに他の女の子とつきあいはじめて、目の前はもう真っ暗。
ひどい男を忘れるために、机の引き出しに詰まっていた、彼からもらった手紙を、庭に出て全部燃やした。燃やし終えてふと気づいた。
手紙の束の中に、今月分の生活費まるまる全部、3千円を入れた封筒がはさまっていたことを。
「もうね、失恋のショックより、お金を燃やしたショックで熱が出てしまってね、大変だった。あのときはほんとにつらかったよー」
母は恥ずかしそうに笑った。
彼との思い出と一緒にお金まで焼いてしまったことに気づき、たき火の前で呆然としている若い母の姿を想像すると、おかしくてかわいそうで、私は泣き顔のまま、吹き出してしまった。
そうして1階に降りて、食卓についた。家族そろってテレビを見ながら、私の好きなおかずばかり並んだ夕ごはんを食べた。
普段通りに、なにごともなかったように、泣き腫らした顔で。
鶏の唐揚げ。じゃがいもと挽き肉のチーズグラタン。豆ごはん。
これらは今では私の家庭の、定番メニュー。
台所に立って料理をしてると、時々思い出す、はじめての手ひどい失恋。
母と、そして私の。
あのひとの顔はもうはっきりと思い出せないけれど、なぜか代わりに、見たこともないはずの17歳の母親の姿、小さなたき火に向かう後ろ姿が、脳裏にぼんやりと浮かぶ。
壁に映した古い8ミリの映像のように、淡く、ぎこちなく、あたたかく。

2002/5/22/WED
[浜辺の思い出]
小さな頃、美しい日本海の浜辺で、ビーチグラスを拾うのが大好きだった。
ビーチグラス。
長い間波と砂に洗われ続け、まるくなったガラスの破片。
かつてはコーラやジュースの瓶だった、あるいはどこかの船窓にはまっていた、ガラスのかけらたちが粗く磨かれ、白い砂にまぎれて眠っている。昔の思い出を夢に見ながら。
溶けたバターみたいな太陽の光が降り注ぐ5月の浜辺で、小さな手で砂を掻いては、そんなビーチグラスをせっせせっせと拾い集めるのが私の大好きな遊び。
ざらざらと不透明なからだをしているくせに、彼らは日光を反射して鈍くぴかりと光る。
私は太陽を背にして砂浜に立ち、首を右に左に傾げては、彼らが「ぴかり」と居場所を教えてくれるのを待っている。
初夏にも手が届かないビーチには、まだ人の姿はほとんどなくて、うち捨てられた古い漁船がよけいに、浜をうら寂しく見せている。でも私はちっとも心細くない。波は白い泡を立てて、ひっきりなしに足元に寄せてくるし、カニはこっそり私の背後で穴掘りをしている。それにそのうち祖母が、天使の輪がかがやくおかっぱ頭に帽子をかぶせに、小走りで松の木陰からやってくる。
祖母が買ってくれたアイスクリームを、海の見える木陰に座ってなめる。
外側がオレンジ味のかき氷で内側がバニラアイスの、透明のプラスチックカップ。ひらべったいスプーンは、口に含むたびに木の味を残していく。最後はオレンジとバニラをぐちゃぐちゃにかきまぜて一気飲み。祖母の手鏡を借りてベロを映すと、ちゃんとベロはオレンジ色になっている。とても嬉しい。
それからまた波打ち際に出て、べたべたする手を洗い、アイスのカップも洗って、その中に拾い集めたビーチグラスを大事にしまう。
水に濡れるとビーチグラスは、グミみたいにきれいな半透明になる。昔つるつるの透明だった頃のことを思い出して興奮したみたいに、色も濃くなる。
てのひらにのせて、ひのひかりにあててかわかすと、白っぽいざらざらした、おはじきみたいなビーチグラスにちゃんと戻る。ざらめがたくさんついた、色とりどりの甘いドロップスみたいな。
潮が引いた分だけ、黒っぽく濡れた砂の部分が増えていく。午後の太陽が落ちるにつれて、エメラルドグリーンの日本海が、だんだんと色を濃く変えていく。迎えに来た祖父の手招きを私は振りかえる。そうしてもう1度、名残惜しい気持ちで浜辺を眺める。「わたしはここよ!」とぴかりとウインクしてくれるビーチグラスはもう、見当たらない。
宝物の詰まったアイスのカップを、両手でしっかりと持って、私は祖父の車に乗りこむ。
乗ったとたん、もう海のことなんか忘れて祖父の顔を見上げ、帰りにスーパーでおやつを買ってとおねだりなんかしている。

2002/5/17/FRI
[彼と彼女]
彼女に出会ったのは、大学時代。
巡回献血車がキャンパスに来ていて、友達と足を運んだけれど、私だけ比重が足りずに献血できず、校舎の階段に腰掛けてぼんやり、もらったジュースを飲んでいた。
ふと隣りを見ると、やはりストローをちゅうちゅうやっている同じ境遇らしき彼女の姿。
髪が長くて、大人っぽくて、おしゃれな容貌とは裏腹に、子犬のように人なつこい彼女を私はひとめで好きになった。
それ以来の関係。
卒業してから会うことも減ったけど、卒業してからの方がいろんなことを話して、わかりあえたような気がする、そんな友人。
彼と知り合ったのは、留学時代。
新入生がちらほらやってき始めた4月、階段ですれちがった私と彼。
彼の個性的な髪型に目を奪われ、思わず名前を聞いてしまったのが仲良くなったきっかけだった。 趣味が似ていて、いくら話しても話題が尽きず、一緒にいるのが楽しくてたまらなかった。彼のことを崇めているらしい年下の男の子から嫉妬の目を向けられてしまうくらいに。
旅に出て、一緒に洗濯して、一緒の部屋で寝て、夜中に散歩した。
寮の部屋も近くて、さみしくなると彼の部屋のドアを叩いた。
あまりにも短期間のうちに、濃密に友情を育ててしまい、のぼせた私は一瞬それを愛情と錯覚したこともあった。冷静な彼は、そんな間違いはおかさなかったようだったけれど。
2つ年下とは思えない、強くて優しい大切な友人。
私の偶然の思いつきが、2年前のちょうど春、京都で二人を引き合わせた。
彼が彼女を好きになる予感が、二人を会わせる前からしていた。
私が彼を好きだから、そして私の好きな彼女だから、きっと好きになるに違いない、と、そんな身勝手な思いこみが、まんまと現実のものになってしまった。嬉しくも。
彼と二人で話をしながら、「ああ、彼っていいなあ」と思ったことは1度や2度ではない。
彼女と枕を並べて、薄闇の中で横顔を見つめ、かわいいなあとうっとりしたことも、守ってあげたいと心から思ったことも、数多くある。
多分彼女は、私の中の何パーセントかの「男」が求めた異性。
そして彼のほうは、私の中の「男」が求めた同性の友人。
3人で会うたびに、ほんの少しだけせつないのは、おそらく私の中の「彼」のジェラシーなのかも。
4月の京都、ピスタチオグリーンの新緑に囲まれた静かなホテルで、彼女と彼の結婚式が挙げられた。
全く違う場所でそれぞれ、私が友情を育ててきた男性と女性が、いくつもの偶然と苦難を経て、こうして結ばれたことが、信じられない奇跡のように思えてくる。
献血できなかったのも、階段で彼とすれ違ったのも、このハッピーな出来事のための神様のすてきな罠。思えばどのシーンも春、そして階段。
必然でない偶然など、ありえない。彼らを見ているとよくわかる。
涙でうまく言えなかったスピーチのかわりに、この場でこっそり、ふたりにおめでとうの言葉を捧げます。

2002/4/24/WED
[うちに帰ろう]
ある日曜日、彼とケンカをして、家を飛び出した。
行くあてもなく車を出して、国道を南に下った。ずっとこの道を行けば、瀬戸内海にぶつかる。住んでいる街からは見えない、海のある景色を見るのもたまにはいいかなと、ハンドルを握り、アクセルを踏みつづけた。
以前は車を運転するのが嫌いだった。せっかくきれいな風景が見えるところを走っても、運転しているとゆっくり見えないし、長いドライブは職業病ともいうべき腰痛にこたえる。
見なければならないミラーがたくさんあって、切り取られた視界が私を取り囲み、狭いところに閉じ込められたような気分にもなる。
おまけに、自他共に認める方向音痴だ。行ったはいいが帰り道を見失った、というようなことはしょっちゅうだった。車を路肩に寄せてガイドブックのドライブマップをぐるぐると回しながらためつすがめつ、ため息をつく。そんな面倒がいやだったのだ。
ところが最近は、「あてもなくまっすぐ車を走らせ、Uターンして再びまっすぐ帰って来る」という技術(?)を身につけた。これなら帰り道に頭を悩ませることもないし、国道何号か、県道何号か覚えておけば、知らない道に迷い込んでしまうこともない。なにより、ハンドルを握ってたちまち変わる景色の中にいると、考えごとがはかどる。悩みごとにもポジティブな結論を導き出せる。それを自覚して以来、ドライブが少しだけ好きになった。
その日も私は、「この道だけを行く」ことを決め、まっすぐ進路を南にとった。天気は曇り。風が強いのか、灰色の重たげな雲が前方の山際をかすめて流れていく。農家が開催する日曜朝市の幟が、ガードレールにくくりつけられ、はたはたとなびいている。
山の中に入ると、FMラジオに雑音が入り始めた。私は助手席に手を伸ばし、適当につかんだCDをセットする。意識を高揚させはするけれど、決して乱れさせない、お気に入りのヒップホップ。もう今は亡き、その早すぎる死のために神話化してしまったアーティストの、ベストアルバム。車の中の空気は、音楽に共鳴してどんどん密度を濃くしていく。その濃い空気の中に身をひたして、私はハンドルを握り続ける。その頃にはすっかり、この無鉄砲なドライブに出てしまった理由も忘れてしまっている。
休憩のために、私は眺めのよさそうな高台のパーキングに車を停めた。
不機嫌の理由を忘れてしまうと、海を見に行く動機もあっさりと消えてしまい、計画を変更してこのあたりでUターンしてうちに帰ろうかと、心の中で、機嫌を直した私がまだ腹を立てている私に相談している。
シートを倒し、靴を脱いで足を上げ、膝を抱えるようにしてそれからしばらくの間本を読んだ。
どこにでもいる普通の主婦が、ふとしたきっかけで家出をしてしまい、見知らぬ小さな町で新しい生活をはじめてしまう話だ。新しい住みか、新しい仕事、新しい友人。はじめは自分がとてつもなくドラマティックなことをしていると始終興奮している彼女も、やがて気づく。生活が始まってしまえば、どこのどんな暮らしも、結局は退屈な一日の繰りかえしなのだ、と。
雲が一層厚くなり、日が翳ってきた。小さな活字がにじんで、目がチカチカする。
私は本を胸に伏せ、目を閉じてしばらくじっとしていた。強い風が車体にぶつかって通り過ぎる音が、絶え間なくしている。口笛のような、すすり泣きのような、高い音。
シートを起こし、体を起こし、私はキーに手をかけた。
そして穏やかに思う。少し哀しいような、少し笑い出したいような、不思議な気分で。
うちに帰ろう。

2002/4/15/MON
番外コラム :[未来から見たこの1年]
昔、「銃弾を作るから寺の鐘を出せ、家の鍋を出せ」と国家が強引に奪っていった時代がありました。子供たちに戦闘機を作らせ、女たちに爆弾を作らせた時代がありました。
「そんなのやだ!」と逆らったら、非国民と呼ばれ、刑務所行き。
そういうことをまたやれるようになるのが、小泉さんの作りたがっている「有事法制」です。
それを「やだー」と言った奴は、捕まえられることにしろ、と、自民党と保守党は強く言っていましたが、昨日、公明党の反対にあって、「罰則規定」はなくなり、「訓示規定」が盛り込まれることになりました。(11日・毎日新聞の速報より)
でも、「訓示規定」ってなんでしょう?いざってときに、私たちはそれに逆らえるのでしょうか?
問題は、「戦争に協力しない人間は捕まえてもいい法律を作ろう!」と意気込んでいる、今の政府のありかたです。これは誰の意図なんでしょう。
反対を唱えない以上、それは多分、選挙権を持っている、私たちの責任。
日本の現代史を読んでいると、
「ああ、日本はここから戦争への道を歩み始めたのだな」
と納得できるわかりやすい転換点がみつかります。
30年後くらいに私たちの子供が、
「ああ、2002年くらいが、日本が戦争への道を選んだ分かれ道だったんだな」
と言うかもしれない、その可能性が、だんだんと、強くなってきているような気がするのです。
(有事法制に関する参考サイト)

2002/4/8/MON
[非日常からの手紙]
私と彼女の出会った経緯を説明するのは少し難しい。
彼女とは10年以上の長いつき合いではある。
しかしそのうち成人してから出かけた旅行以外で、ふたりが共有した時間というのは、高校時代のたった5日間だけなのだ。
私たちはある場所で出会い、そこで5日間寝起きを共にし、顔を合わすことがなくなっても毎月のように手紙を交わした。
当時は住んでいる場所も、車で1時間以上離れていた。
その距離は高校生にとって、東京と大阪に匹敵するくらいの遠さだ。
私たちはその距離を、手紙に書いた文字で埋めるようにして、これまでつきあってきた。
学校も友人も趣味も違ったが、私たちはお互いの好きな人や、悩みや、将来についての希望を知っていた。同時に何かを体験することはなかったけれど、手紙に書かれた文字を追いながら、相手を理解し、大切に思っていた。知らず知らずに。
やがて大学生になり、車が運転できるようになると、手紙のやり取りに加えて、年に数回は会えるようになった。
半年ぶりに顔を合わても、全く違和感はなかった。それを不思議とも思わなかった。
会うたびに「久しぶり」と言い、おいしいものを食べながら、好きな人のことや友達のことを話していた。話題は尽きることはなかった。
共通の思い出は5日分しかないけれど、私たちの間には相手から送られた、靴箱からあふれだすほどの手紙の山があった。
彼女とごはんを食べに行くとき、「何が食べたい?」と聞くと、
9割の確率で「米が食べたい」と返ってきた。
普通「イタリアン」とか「和食」という答えが返ってくるものだが、彼女の場合、ドリアでもカツ丼でもいい、とにかく、「米」が食べれればいいのだ。
だから何度も会ううちに、私の頭の中には「彼女=米」という図式ができてしまった。
そんなふうに少しずつ、私たちはお互いのジグソーパズルを埋めていく。文字以外の方法で。
手紙という手段によって、私たちはずっと時間的には寄り添って歩いてきたけれど、空間的には全く別のところで生きてきた。性格も興味も進路も職種も彼氏のタイプも違っていたし、ある意味違うことを楽しみながらつきあってきた。
彼女とは高校時代に知り合ったけど、彼女といる高校の教室というものは全く想像できない。
彼女も、私と職場で一緒だったらどんなだろう、だなんて考えたこともないだろう。
日常を共有しない友人。それが私にとっての彼女。不思議だけれど、自然な関係。
初めて出会った高校時代の5日間は、今の1ヶ月以上に長く感じ、強烈だった。
思い出のひとコマひとコマが、いまでもカラフルに甦る。
そして、1日があんなに長かったあの頃から今日まで10年以上、私たちがお互いの存在を日常の忙しさに置き去りにしなかったことを、奇跡のように眩しく思う。

2002/4/2/TUE
[イタリア・ローマのレストランにて]
ローマの郊外の、小さなレストランで夕食をとった。
そのツアーは値段は安かったが、ホテルは市内からずいぶんと遠く、不便だった。
近くに郊外型の大きなスーパーマーケットがある以外は、だだっ広い道路と、
茶色い丘しかなかった。
ツアーにはフリータイムが多いのに、ホテルからの移動の足がタクシーしかない。
ローマについて1日目の、夕方以降の中途半端なフリータイムは、そういうわけで仕方なく、部屋のベッドに寝転がって次の日のプランを立てていた。おなかがすいたら、ホテルのスタッフに「ここからいちばん近いレストラン」を尋ねて出かけることにした。
30人も入ればいっぱいになりそうな、小さなレストランには、家族連れらしい5人と、老夫婦が1組、壁際の席で食事をしていた。私と友人の2人は、反対がわの壁際のテーブルに通された。
イタリア語オンリーのメニューにシクハクしながら、白ワインをハーフボトル、それからサフランリゾットと、カルボナーラと、サーモン入りのサラダを頼んだ。トマト嫌いの私は、「ポモドーロ」という単語を巧みに避けながら。
家族連れと老夫婦は、いつのまにか同じテーブルでワインを飲み交わしていた。
知り合いなのだろうか、だんだん陽気度は増し、声が大きくなっていった。
彼らが動くたびにテーブルの上のろうそくの光が揺れ、天井に映る影がふらふらと踊る。
彼らの様子をちらちらと盗み見ながら、ぼそぼそと小声で話して夕食をとるふたりの日本人を、彼らのほうも気になっていたらしく、とうとう、
「おーい、きみたちはチャイニーズか、ジャパニーズか」
と禿げ頭のおじさんが尋ねてきた。
「ジャパニーズ」私が答えると、
「きみたちはスパニッシュをしゃべるのか」と返された。
うーん、とうなりながら、「ジャパニーズを話します」と応答する。
以前知り合ったハンガリー人に、「僕の知ってる日本の有名人はジャッキー・チェンだ!」とにっこり宣言されたことを思い出した。日本人は、自分たちが思っているほど有名でもないし、嫌われてもいない。観光地をほんの少し離れれば。
彼らの好奇心は、私たちに日本の歌を歌うことを求めてきた。なんだろう、考えた末、「赤とんぼ」を歌ってみる。うーん、のりはイマイチ。趣向を変えて、ザ・ブームの「島歌」を歌ってみた。
高いキーは声が裏返ってお世辞にもうまいとは言えないが、彼らは喜んで身体を揺らしてくれる。
歌い終わった私たちに、拍手喝采と、グラスにいっぱいのワインをプレゼントしてくれる。
もう6、7年も前のことだ。
けれどレストランで白ワインのハーフボトルを頼むたびに、私は少しの恥ずかしさとともに、遠い国に住むあの陽気な人たちを思い出す。彼らも、何かの折に、音痴な日本人のことを、笑顔とともに、思い出してくれればいいと思う。
そうしてほんのすこしだけでも、日本というはるか海の果てに浮かぶ小さな島国に住む人々のことを、好ましく思ってくれればいいと、願う。

2002/3/27/WED
[あるわんこの一生]
彼が私の前から消えて数ヶ月、視界に茶色いものがあれば、奴かな?と思い目をこらすことも少なくなった。
天気のいい日の彼のお気に入りだった、植込みの芝生。
そこを通ると必ず彼が飛び出してくる、曲がり角。
雨の日の、軒からしずくがたれる、倉庫の裏の屋根の下。
彼の恋人のおうち。
そこから覗く彼そっくりの恐ろしい顔のかわいい子犬。
いつも同じ時間にわたしの家の前の道路を通りすぎる、毎日彼に餌をやっていたおじさん。
ずっとなにもかわらない毎日。彼の不在以外は。
最初は私の肘から先くらいの大きさしかなかったこのわんこ。
いつの間に鼻の長い獰猛そうな犬に成長してしまった。
野良犬で毛並みも悪くあばらが浮くほど痩せ、子供の頃は人間との付き合い方を知らず、優しくしてやっているのに背中を向けるとくるぶしに噛み付いてくるようないやな奴(本人は遊んでいるつもり)だった。
けれど成長してくるにつれ、人の優しさを覚えるにつれ、その容貌には似合わない、愛くるしい犬になっていった。
えさをくれる人には、般若のような顔で甘えてすりより、車の音を聞き分けてぱかぱかと追いかけてくる姿のそばに、いつ頃からか恋人の雌犬が。
そしてしばらくするとその間に5匹の可愛い子犬がちょろちょろし始めた。
そして彼が幸せ絶頂のその頃、犬嫌いのご近所さんが保健所に連絡、かなしいことにガス室送りとなってしまった。
彼は一週間、檻の中で死のときを一人で待っていた。
檻の中で彼がどんな気持ちで、かつて信じていた人間を見ていたかと思うとなんだかやりきれなくなる。
もちろん犬が嫌いな人のことを責められない。悪いのはむしろ何の責任もとらないくせに野良犬に餌を与えていた私たちの方といえるだけに、彼の不在は罪悪感とさみしさで私の心に風を吹かせる。忙しい毎日の中、いっときの間だけ。
眼鏡からコンタクトに変えた顔の違和感がだんだん薄らいで行くように、彼の不在もいつの間にあたりまえのことになっていく、その中で、彼が残した強烈な印象は、いつまでも消えない。
彼の生き方は、こむずかしい哲学の本よりももっと強く深く、私に訴えかけてくる。
未来の心配で今を台無しにするなんてもったいない。
シンプルに、力強く、真っ直ぐに、生きるということのすばらしさ、その難しさ。
毎日がりがりのからだでぴょんぴょん跳び回って、
命の終わりの少し前にジュニアをちゃっかり残して、
おなかがすいたとき以外はいつも元気な顔で私を見上げ、
たくさんの人たちの心にたくさんの思い出を残して、
彼は逝ってしまった。人間の手で。
という、わんこの話。

2002/3/19/TUE
[ドアと仮面]
南向きのベランダからは向かいのアパートが見える。
グレーの4階建てで、ドアはフロアに4つずつ。
ドアの右には台所に面した小窓、左側にはガス湯沸かし器。
夕方、日が落ちて薄暗くなると、通路の電灯がいっせいにまばたきをして点る。
あたたかい日、私はベランダに専用マットを持ち出して、ごろりんと横になる。
幸いどこからもベランダの内側でぐうたらしている私の姿を覗くことはできない。
目隠しに嵌められた磨りガラスとコンクリートの隙間から、ミステリ小説に飽きた私は、ぼんやりと向かいのアパートを見ている。
毎日事務所づとめをしていた頃には、決して見ることのできなかったその光景。
小さな頃、お人形の家に凝ったことがあった。
おうちは縦に割られていて、部屋ごとの生活を見ることができる。2階に続くエレベーターまでついていた。
あるいは小学校の蟻の巣観察。
インスタントコーヒーに詰めた土の中で蟻を飼うと、ガラスごしに深く広がっていく蟻の巣が見えるのがおもしろかった。
ドアの並ぶアパートの見える風景は、それらに似ている。
私の全く触れられない複数の他人の日常が、そこに展開している。
仕事へ出る人。買い物に出る人。散歩から戻ってきた人。
彼らはドアから出て、たちまち、社会という曖昧な領域に瞬間移動する。
多分、ドアの外と中では、彼らは別の人格を持っている。つながっているけど、とてもよく似ているけど、別の人格を。お面のような。
セールスに来た人。宅急便の人。
彼らも同じだ。彼らもつけ変えるマスクをポケットに忍ばせながら、夜には戻るべき場所へ戻り、ドアを開ける。
規則正しく並んだドアのひとつを。
ふと気づくと、私のいる建物のどこかから、電話の相手と話しているらしい声がぼんやりと聞こえてきた。ああそうだ、と笑ってしまう。私もその一人じゃないか。まるで神様みたいに彼らを観察してるけど、私もありんこのいっぴきに過ぎない。
私は映画を観ている。
ワンシーンで、窓辺に立つ主人公からすうっとカメラがひいていく。
視点が遠ざかり、示されたのは無数の窓を持つビルのロングショット。
主人公の部屋はどこだっただろう、もうすっかりわからない。この窓一つ一つに誰かの生活があるのかと思うと気が遠くなる。
そして再び、カメラはもとの窓をゆっくりとクローズアップ。
大写しにされたその窓には、他でもない私がいた。読みかけのミステリ小説に人差し指をはさんで。
驚いて口をあける観客の私。ポケットから仮面が滑り落ちる。
妻の仮面。働く女の、娘の、物分かりのよい先輩の仮面。見知らぬ女の仮面。
規則正しく並んだドア。ドアの向こうにある似たような、けれどひとつとして同じものはない人々の生活。瓶の中で日に日に階層を増やしていく蟻の巣と、それは似ている。
気絶しそうなほど複雑で、気絶しそうなほど単調な日常を、私たちは繰り返している。
毎日ドアを開け、毎日たくさんの「私ではない私」をあやつる。信号待ちで立ち止まり、「いったいなんのために」と空を見上げてため息をつき、人ごみの中で自分自身を見失い、叫び出しそうになる。
それでも帰るべきドアへと戻り、風呂に入ってベッドに入る。仮面を操るのに慣れすぎて、いったいどれが本当の自分かわからなくなり、眠る瞬間まで何かの役柄をほんの少しだけ演じている。けれどそんな自分を、やっぱりいとおしいと思いながら、眠りにつく。
その寝顔を、私は南向きのベランダから眺めている。
並んだドアの向こうに。

2002/3/8/FRI
[氷砂糖]
目をつぶって口をあけて、放り込んでもらったときのあの不思議な感じ
冷たくてあまやかで幸せな思い出
大学一年のとき、背の高いテニス部の男の子とつきあった。
英語のクラスが一緒で、誰が見てもハンサム、というわけではなかったけれど、独特の色気と雰囲気を持った人だった。「テニス部のあの背の高い」というと、たいていの人が「ああ、あのひと」、とうなずいた。
多分相手も自分のことを好きなんだろうな、と思いながら楽しい時間を過ごしていたが、そういう曖昧に気持ちいい関係にのんびりと浮かんでいることができずに、私の方から告白してさっさとつきあいはじめた。
世の中には黒か白しかない、と思っていた。オセロのように、攻めて攻めて攻めまくり、同じ色に安定した状態が正しいものだと思っていた。
世界は自分の心の中で完結し、人生は私が主人公の壮大なドラマだと、傲慢にも信じていた。
彼には数ヶ月もしないうちに振られた。
見た目は大人っぽくて周囲を威圧するような姿勢のよさで歩いていた私が、手をつなぐにもびくびくするような女の子だったせいもあるかもしれない。
男友達をたじろがせるような毒舌で有名なくせに、断わられることなんか全く予想もしてないような不遜な態度で告白したくせに、恋の駆け引きひとつできなかった不器用さもあるかもしれない。
ただ逢いたくて彼の部屋を毎日訪れるのに、つけっぱなしのテレビを二人でぼんやりと眺めていた。
「ハットリくん」なんか見ながら、おもしろくもないのに笑ってみたりしていた。
彼の心が遠ざかっていくのを感じながら、仲間と一緒にいるときにはことさら大人びた彼女として演技を続けていた。
独特な雰囲気をもつ、目立つ素敵な彼を持った私自身を、そのとき私は愛していた。
今になってわかる。もてる彼のそばに寄りそう私、そのイメージに恋していた。
私の視線が彼のからだを通り越して、私自身に向いていることを彼は漠然と感じていたのだろう。
その後まもなく共通の友人とつきあいはじめた彼を、私は少しだけ恨んだ。
思い出はつらくてさみしかったことばかりで、「彼を友達にとられた私」という役回りはとっても居心地が悪くて、それなら最初からつきあわなければよかったのに、と、自分の行動ではなく彼の選択に責任を転嫁した。
口に放りこまれた氷砂糖は、最初は何の味もしない
つめたくて、角があって少し痛くて、苦味さえおぼえる
でも舌のうえで転がしてみると、すこしずつわかってくるその甘さ
純粋ゆえの硬質
あまやかさをとじこめた透明な結晶
ふとした瞬間、未熟な私を大切に思ってくれていた彼の表情が鮮烈に甦り、私の足を立ち止まらせる。
エレベーターの扉の前に立ち、人差し指で軽くボタンを押したとき。
かすかな震動音をさせて、四角い箱がやってくるのを待っているとき。
随分昔に、こんな扉の前に立ち、ふいに肩を押さえて額にくちびるをつけてくれた彼の、あのスムーズなくせに幼い、情熱を受けとめたことを思い出す。
ことばにすると陳腐だけれど、あの一瞬は永遠だったと、額を押さえてしばし立ち止まる。

2002/3/5/TUE
[包帯]
小学校の頃ささいな怪我に包帯をして学校に行くのが嬉しかった。
風邪だと素直に言えばいいのに、「扁桃腺がね」などと鼻をとがらせるクラスメイトがなんだかかっこよく思えたりした。
たまに病院に行くと、お年寄の多さに驚く。彼らの共通する話題はもちろん体の不調だ。腰がどうの、胃がどうの、知り合いが入院してどうの、話は尽きず、やがて病状には尾ひれ背ひれがついていく。
子供や老人だけではない、世の中には「流行りの病名」というのが常に存在する。
「〜中毒」「〜依存症」「〜障害」「うつ」「PTSD」…
病名をつけられることへのひそかな快感、それはどこからくるのだろう。
ある女優が離婚の理由が少女期の「トラウマ」による「PTSD」であると言った後、それらの単語は新しい色合いを持って人々の口にのぼり始めた。
本来持つその深刻さを置いてけぼりにして、なんとなく不幸っぽい、軽めの不安を語ることばとして流布し始めた。
おそらく、世の中に現れては消えていく数多くの流行語のように、やがてはその姿も薄らいでいくのかもしれない。そんなに目くじら立てて気にする必要もないのかもしれない。
でもその言葉を簡単に口にする人たちのその奥に、その病名に本当に苦しんでいる人がたくさんいる。
包帯をして学校に行くのが楽しかったのは、みんなに注目してもらえるから、いばって体育をサボれるから、掃除の時間ぞうきんがけせずにすむから。
ほんの短い間だけ、包帯は特別な自分を創り出してくれた。いたって他力本願な。
制服や規則や噂話で、個性をあんなに閉じこめさせてきたくせに、世の中は今になって個性を求め始めている。急にそんなことを言われても、どうすればよいかわからずに、とりあえず包帯を巻いてみる。みんなはそこに注目する。見て、これが私の個性。人とは違う。
私がそれをできない理由も、見て、私はここに包帯を巻いてるの。人より弱いの。だから勘弁して。
包帯の下に、本当の傷が隠されているのか、それとも弱さの言い訳が隠されているのか、外から見る人にはわからない。豊作の年のレタスが大安売りになるように、病名が流行り言葉になると、その本当の苦しみまで軽んじられ始める。
私は以前過食症だった。嵐のまっただなかにいるときの私は、うまくいかないことがあると「私は過食症だから」と言い訳を自分自身につぶやいていた。
けれどあるときから「過食症だけど」と言葉を続けるようにしてみた。
その瞬間、出口に続くささやかな光が見えた。
プールの時間が嫌いで嫌いで、私はとっくに治っていた腕の怪我に、いつまでも包帯を巻いていた。
だけどやっぱりみんなと遊ぶには邪魔で、小学生の私はその包帯を思いきり解き放った。
まだ癒えない傷だって、光に晒した方がきっと早く治ってくれる。
からだはその力を持っている。

2002/2/26/TUE
[アンテナ]
「私は私の人生を生きるほかない」と自分に言い聞かせることが多い。
この呪文は別に、今の生活に不満を持っているとか、本当は違う生き方をしたかったとか、そういうないものねだりからくるものではない。
私の受信装置の一部には欠陥がある。
たとえばラジオをいじっていると、韓国の放送が混じってくることがある。それはいい。
もしもそこでオーストラリアとかエジプトの放送が流れてきたら、届くはずのない電波を受信したら、あなたは気味悪くなってそのラジオを触ることをやめてしまうかもしれない。
そんなふうに、私は他人の事情に反応する。
友人の相談。ワイドショーが伝える事件の詳細。新聞の小さな囲み記事。
最近はある程度コントロールできるようになったが、ときどき堤防の小さな穴から流れこんできて、私を混乱させる。他人の複雑で苦しい事情が、まるで自分のもののように感じられ始め、心の中で膨らんでいくのだ。
どこまでが自分の感情でどこまでが他人の感情かわからなくなり、悩み、泣き、怒り、神経性胃腸炎を悪化させる。
冒頭の呪文は、他人から私の意識を隔離するために役立つ。
他人の事情はあくまで他人のもので、私が遠く離れた場所で、当事者に限りなく近い気持ちでどんなに悩んだとしても、何も変わらない、何もよくなっていかない。
それならば一切を忘れて、穏やかに生活した方がいいのだ、と、自分を納得させることができる。
私の受信装置には欠陥がある、そう感じたのはいつからだったろう。
学校で誰かがいじめられていたとき。知り合いが自殺したとき。
私の心はいじめられっ子、あるいは死者の家族になりきって悲しみ苦しんでいたのに、みんなが同じように反応するわけではないのだと気づいたときは、驚いた。
私が自分でコントロールできないアンテナを、みんなはいとも簡単にするするとしまいこんでいた。最初からないと思っている人もいるのかもしれない。中にはありとあらゆるアンテナを片付けてしまっている人もいる。高級マンションみたいに厳重警備で、マイナス感情を起こすゲストをかたっぱしから排除する。アンテナは全て、自分の内側にだけ向いている。
私は私の人生を生きるほかない。
他人の事情まで取り込んで、思い悩む必要はない。
だけどもしそれがあなた自身だったら。
あなたの家族だったり恋人だったり、大切な友人だったりしたら。
それでもあなたはそのアンテナを下ろすのだろうか。
私の人生は私のためだけにあるわけではない。
壊れた受信装置は私にそう訴えかけてくる。
だからあなたもそのアンテナを。

2002/2/5/TUE
[うお座の私のバレンタイン]
占いを信じているわけではないけれど、ティピカルなうお座の女として私は適格だ。
感情的で、ロマンチストで、芸術家肌。
裏を返せば、理性的に物が考えられず、算数が苦手で、熱しやすく醒めやすい。
「うお座なんてさ、人類の12分の1でしょ?そんなおおまかに分けられたって、信用できないよねー」などとうそぶきながら姓名判断をしてみると、男なら社会的に大成功を収めるタイプ、感情を隠すことができず、芸術的職業において能力を発揮する、とある。
うーむ、ここでもか。
私にとって「芸術的」という評価は、得てして「一般社会をうまく世渡りできず、几帳面さにかけ、好き嫌いが多すぎる」といわれているように聞こえる。
「感情的」なんて言葉は聞いた通りで、「理性的にものが考えられず、短気で、人間関係の構築がへたで、恋愛で身を滅ぼす」と断言されているようでとても腹立たしい。
で、結局、なんで腹立たしいかというと、その推論がまさしく私という人間をずばり言い当てているからだ。そういう私にとって、このバレンタインという一日は、恥ずかしくも悲しい思い出の積み重ねでしかない。思いつめて突っ走り、みごと玉砕、その繰りかえし。
中学2年で片思いをはじめたOくんとは、3年でクラスが分かれてしまった。心置きなくその姿を眺められるのは、放課後の部活と、昼食の終わった昼休みだけ。彼らは空き時間があれば、校舎の裏でほうきを使って野球をしていた。友達といつも、窓からそれを見下ろすのが楽しみだった。Oくんがかっとばすと、思わず歓声を上げ、窓の下にしゃがんで隠れる。今考えるとバレバレなんだけれど。
部活が終わった後、帰り道で偶然出会えるように、いつまでもぐずぐず支度をする。せっかく帰りが一緒になっても、相手は自転車通学。あっという間に追い越していく後姿を見送るだけ。
高校生になって会うことがなくなっても、なんだかあきらめきれず、みんなが浮かれているバレンタイン熱に乗じて手紙を出してしまった。もちろん返事はもらえずそれっきり。熱が冷めてしまったら急に恥ずかしくなってきた。学校が違って顔を合わすこともないのが不幸中の幸い。
手紙の内容は全然覚えてないけれど、何を書いたか想像しただけで、今でも顔から火が出るほど恥ずかしい。
手紙を出してから数ヶ月後。
朝起きたてのすごくだらけた格好で、近所の河原、犬を連れて散歩していると、自転車に乗った彼が前からやってきた。
なんで。信じられない。
手紙を出したことよりもまず、サンダルをつっかけた、頭ぼさぼさの自分の姿を考えると、恥ずかしくて顔が上げられない。うつむいて歩く私にすれ違いざま、彼が声をかけてくれた。
「オッス」
そうだ、彼のこういうところが好きだったんだよなあ、と思いながら、それでも私は顔を上げることができなかった。ユーミンの歌にそういやこんなシーンがあったあった、会いたいときには会えなくて、会えたときは格好悪い姿を見られるんだ、と、走り出す犬に引きずられながら、寝起きの頭でぼんやりと考えた。
バレンタインとか、片思いとかいう言葉を聞くと決まって、河原を歩いていたその日の私のことを思い出す。感情的で、思いこんだら後先考えず突っ走り、出した手紙のことを死ぬほど後悔してうつむく私のことを。
あれからちっとも成長してない。

2002/1/28/MON
[続くトイレ談義]
日本のトイレの水の流し方はもうさまざまで、中にはすっきりして立ちあがると勝手に水が流れてくれる、なんていたれりつくせりのものもありますが、そんな過保護な日本人が海外に出ると、諸国のトイレ事情には驚かされることばかりです。
中国に住んでいた頃、行きつけの食堂でトイレを借りると、半畳くらいのスペースの小屋の中に、大きな壷がひとつだけ、すみっこにぽつんと置いてありました。使い方がわからず悩んだ末、結局使わなかったけれど、後から聞くと洋式便所ふうに座るもののようです。壷に。
東南アジア方面に行くと、手動水洗トイレが一般的になります。トイレには必ず水道か水の汲まれた桶と、杓子がついています。手でお尻を洗って、残りの水で手動水洗。時には暑さしのぎにトイレで水浴びまでしてる人もいます。この手動ウォシュレット、慣れると結構すがすがしいらしいんですが。
すがすがしいといえば、ミャンマー、インレー湖で水上に住む人々のおうちのトイレ。
高床式で湖の上に立っているおうちに入り、離れのトイレを借りると、竹で編まれた床に四角い穴がひとつ。覗くと魚たちが上から餌が降ってくるのを待っています。オオキイホウだった私は躊躇するも、思いきって実行。着水音がするまでやや時間がかかります。お尻を涼しい風が撫でていく。こんなすがすがしいトイレが他にあるでしょうか。
そこでは下で待っていたのは魚でしたが、タイだったか中国だったか、民家でトイレを借りたらそこは2階で、足場の隙間から1階を覗いてみると、豚さんたちが餌を待っていた、究極のリサイクルトイレットもございました。
中国の田舎のトイレに扉やついたてがないというのは結構有名な話ですが、ミャンマーで長距離バスに乗ったときのトイレ休憩ではちょっとびっくりしました。
17時間の夜行バス、同乗した旅行者の男の子がトイレに行った後、なんだか複雑な顔をして帰ってきました。「どうしたの?」と尋ねると、「みんな立ってしないみたいなんだ」とボソリと言います。
ミャンマーの人々は男性も女性もロンジーという巻きスカートの民族衣装を身に着けているのですが、男性たちがスカートの裾をからげて円陣を組んでしゃがみこみ、仲良く話しこみながら連れションしていたというのです。
「オオキイホウじゃないとは思うんだけど、そうだったらどうしよう」
と、油っこいくせのあるミャンマー料理にも頑張って馴染もうとしていたさすがの彼も、相当なカルチャーショックを受けている様子。
それでも私は、浅黒い顔に髭を生やして、噛み煙草で口の中を真っ赤にしているコワモテのミャンマーの男たちが、仲良くしゃがみこんでいる様子を想像すると、なんだかとっても楽しくなったのでした。
テレビの画面で私たちは世界中のどんな風景も目にしているせいか、初めて訪れたはずなのに既視感がその感動を半減させたりします。だからこそ、海外を旅しての何よりの思い出は、そういった驚き体験なのだと思います。
異文化を受け入れる心の準備さえ整っていれば、他の人にとっては苦痛でしかないかもしれない、どんなトラブルもハプニングも、いえそれこそが、自分だけのかけがえのない宝物になるような気がするのです。

2002/1/9/WED
[けむり]
未だ暗い朝からぼんやりと音楽を聴いている。
開けた窓からは、ひんやりと肌をさすような冷たい空気が壁を伝って滑り降りてくる。
煙草の煙がたゆたいながら外へ流れ出していく。
コーヒーの香りが煙のように部屋に広がっていく。
音楽さえも、煙のように、細かな粒子となって、私の寝ぼけた体を包み込む。
布団にはまだ彼のにおいがした。
私の体温でベッドを暖めるとゆらりと幻のように立ち現れてくる。
彼の不在が夢のようでもあり、そのにおいこそが彼の不在を私に知らしめているかのようでもあった。
少なくとも彼がいれば、私はこうして煙草を味わうことはできない。
夜中に煙草一本のために喫茶店にコーヒーを飲みに行くこともない。
束縛から放たれたのだ。
しかしその束縛は、私が何よりも欲していたものだった。
解き放たれてから気づく、流れていく煙のようにもう、元に戻すことはできない。
窓を閉める。
彼の残り香を消すために、煙草の煙で部屋をいっぱいにしてみる。
喉の痛みで咳が出る。むなしく部屋にこだまする。

2001/12/19/WED
[贈りもの]
クリスマス、夫は妻のために髪留めを買い、妻は夫のために時計の鎖を買った。
家に帰ってみると、夫は腕時計を、妻はその美しい髪の毛を、お互いのプレゼントを買うために売ってしまっていた。
すばらしいのは、その贈り物ではなくて相手を想う心である、
これはO・ヘンリーの有名な、短編小説。
相手を想う気持ちは十分にあるのだが、私の贈るプレゼントはどうも彼には喜んでもらえないようだ。何度も失敗して、押入れの奥に眠りっぱなしになってしまうのに、内緒で買っておいて「ほら!プレゼント!」と見せるときの快感を捨てきれず、あやまちを繰り返してしまう。
最初はとりあえず嬉しそうな顔をしてくれていた彼ではあるけれど、私が考え抜いて、お財布はたいて買ったそのシロモノは、とうとう日の目を見ることのないまま眠りについてしまうのだ。
私は両親がとても若い頃にできた子供だ。その後すぐに弟も生まれて、若い両親の生活はとてもつつましやかなものだった。考えてみれば、母が今の私の歳の頃、私は既に小学生だったのだ。
欲しい物もなかなか買ってはもらえなかったし、弟が病気をしたこともあり、私はひどく聞き分けのよいおねえちゃんとして、おねだりやわがままはほとんど言わない子供だった。
それだけに誕生日とクリスマスには、過度の期待をしてウキウキ興奮しまくっていたのだが、期待はいつも空回りした。
なぜなら、子供へのプレゼントは、いつも父親のお見立てなのだ。母親と子供たちが夕食を食べ終えた頃、父親は仕事を終え、プレゼントを抱えて上機嫌で帰って来る。
きゃあきゃあ言いながら包装紙を開け、出てくるのは期待とはかけはなれた予想外な品物ときまっているのだが、思いやりのある長女はさも「これが前から欲しかったの〜」とばかりに喜ぶ顔をしてしまう。
どんなに毎日寝る前にお願いしていても、枕元にサンタが置いてくれるのはリクエストとは違う雑誌や小物ばかりなので、どうしたって期待はサプライズプレゼントを買ってくる父親の勘にかかってくる。
弟の欲しいものは超合金のナンタラカンタラだとか簡単に想像がつくのだが、娘の欲しいものにはさっぱり勘が働かないようだ。リカちゃんのパーマ屋さんが欲しいと前から言っていたのに、出てきたのはスパンクのミシンだったり。あれは不器用な娘への期待だったのかな。
私のクリスマスは、欲しいものが届けられる日ではなかったけれど、父親が似合わないお店にたたずんで、うんうん悩みぬいて買ってきた、びっくりプレゼントが手渡される日だったんだなあと思い出す。
もらったプレゼントのことはきっと忘れてしまうけれど、私の喜んだ顔を見た父親の笑顔は、今になっても忘れていない。
プレゼントに対する私のスタンスは、もしかすると父親譲りなのかもしれないと、最近思い始めた。欲しいものを聞いてからプレゼントを選ぶより、自分であれこれ考えながら買うほうが断然楽しいし、贈った相手がなんだろう、と考えながら包装を解く瞬間もどきどきする。
たとえば恋人が私のようなタイプだったら、きっとがっかりすることも多いはず。
でもどうか、包装を開いて出てきたものがちっとも欲しかったものではなくても、にっこり笑って「素敵、どうもありがとう」と贈った相手に言ってあげてください。文句を言うのはその後から。
すばらしいのは、その贈り物ではなくて相手を想う心、
それがいちばん素敵な、あなたから贈り主へのプレゼント。

2001/12/11/TUE
[居場所の喪失]
何年か前、いりびたっていた喫茶店に、
ガイジンみたいにふわふわカールしたロングヘアの女のひとがいた。
私が行くときにはいつも見かけたので、もしかしたら毎日通っていたのかもしれない。
その店には2人がけのテーブルがいくつかと、10人くらいが囲んで座れる大きなテーブルがひとつあった。 ひとりで来た人はたいていその大きな方に座る。彼女も、私も。
テーブルの真ん中にはいつも大きな花瓶があって、きれいな花が生けてある。
入り口に近い方の椅子の後ろにはこれまた大きなスピーカーがあり、入り口から遠い方の椅子の後ろにはスタッフオンリーのドアがあった。
私はいつもスピーカーの方に座り、彼女は奥の扉を背にして座った。
スピーカーのそばには窓ガラスがあって、ときどきかすかに「ビィン、ビィィン」とスピーカーの音がぶつかってガラスの震える音がする。
私がその席に座るとマスターはシドニー・ベシェの曲をかけてくれた。いつもではないけれど。
席についた私に、そのひとは、花瓶の向こうから覗くようにして挨拶をする。
常連の、仕事中らしい30代の男性たちは彼女をいつも無視するが、私は花瓶のこちらから、頭だけは下げていた。
私の母親ほどの年齢だろう。シンプルなワンピースを着ていることが多かった。ほとんどすっぴんの褐色の肌に、栗色のもじゃもじゃの髪のとりあわせが、なんだか日本人離れしていて不思議な存在感があった。話をしたことはなかったけれど、そのひとには好意を抱いていた。いつもひとの悪口ばかり言っているサラリーマンたちよりは、ずっといいひとだと思っていた。
ある日店に行ってみると、大きなテーブルに5、6人のおばさまがたが座っていて、私の指定席がふさがっており、鳥の巣頭の女のひとと並んで座ることになった。私の知らない作家の本を読んでいた彼女は私を見て頭を下げ、「こんにちは」と言った。私も挨拶を小声で返した。
やがておばさまがたは話を切りあげて立ち上がり、がやがやレジへと向かった。
いつもの席が空いたらすぐに移ろうと思って見ていると、その席に座っていた人がそのひとを見て、「きゃっ」と声をあげ口を手で押さえた。声は小さかったので、私しか気づいた人はいないようだった。隣りのそのひとも、本に目を落としたままだ。
なぜ彼女を見て驚いたのか不思議に思い、私は声を上げた人をじっと見ていた。
その人は紅潮した顔で何度も女のひとの方を振り返っていたが、割り勘で支払いを済ませ、連れの人たちと共に店を出て行ってしまった。
一体どうしてあのおばさんは鳥の巣頭の女のひとを見て驚いたのだろう。
答えをあれこれ想像してみることは、読みかけの推理小説の犯人探しよりも数倍わくわくした。
頭の中で、いろんな彼女がしゃべったり動いたり恋愛したりして私を楽しませてくれた。
答えは数日後、例の男性たちの口からばら撒かれた。
驚いていたあの女性が数日後、店に再びやってきて、女のひとの過去についていろいろ話して帰っていったというのだ。
「教師」とか、「不倫」とか、「病院」とかいう言葉がこそこそと飛び交った。
しばらくは店はその話題で持ちきりで、鳥の巣頭の女のひとがやってくると、常連客の好奇の視線が彼女の席に集まるようになった。
べらべらと自慢げにそれをしゃべる人たちも下らないが、そのことを後日わざわざ店に言いにきた、あのおばさんに私は腹を立てていた。
あのひとがこの店を気に入っていたのは誰が見ても明らかなのに、そういう場所を彼女から奪うようなことをするなんて。
人の噂でもちきりの店から、私の足がだんだん遠のいていった。
明るい茶色のもじゃもじゃ頭も、見かけなくなっていた。
ある秋の日、工事で片側通行の赤信号にひっかかった。
旗を振る人のヘルメットからのぞく、くしゃくしゃの巻き髪に、もしやと思って目が離せなくなった。
通りすぎるときに一瞬見えた横顔は確かに、あの女のひとだった。
花瓶の向こうからのぞいていたのと同じ、穏やかな瞳の色がそこにあった。
何も考えずにぼんやりとコーヒーを啜れる場所を、彼女は失った。
頼まなくてもお気に入りの曲がかかるお店を、私は失った。
ただ、それだけのことなんだけど。

2001/12/4/THU
[思い出す]
今年もデンマークの友達から、「クリスマスの紅茶」が届いた。
「ソーデルブランドニング」といって、オレンジの皮や花びらが紅茶の葉の中にちりばめられている、ステキなお茶だ。
はじめて飲んで「日本にはないよ」と感動した私に、住む場所が遠く離れた今でも、彼女はこうして手紙と一緒に送ってきてくれる。冬の気配が近づく頃。
ポットを温め、茶葉の上から熱いお湯を注ぐと、カラフルな花が咲き乱れる草原の香りが部屋にたちこめる。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
* * * * * * * * * * * *
その頃中国のとある大学に留学し、寮で暮らしていた私たちは、毎晩シャワーを浴びた後、パジャマ姿でお互いの部屋を訪れるのを日課にしていた。
部屋の主が飲みものを提供し、お客はお菓子を持参する。
クリスマスが近くなると、私たちは飽きずに繰りかえし旅行の相談をした。
クリスマスには北京か上海に行って、おしゃれな服を着てクラブで踊って飲んで、おいしいものを食べて、ビッグマックをおみやげに買って帰ろうね。
現実逃避の会話が途切れると、ろうそくの光を見つめながら、ふたり黙って煙草を吸う。
彼女の金髪が光を受けとめて、揺れてあわくかがやく。
私の黒い瞳には何がうつっているだろう。
BGMはスタン・ゲッツ。
イブも近いある夜、ドイツ人の男の子が、「アップルパイ焼いたから来ない?」と誘いにやってきた。
私たちは顔を見合わせ、OK、とうなずく。部屋を見回し、買い置いていたスパークリングワインの一升瓶(ほんとにでかいのだ)を手土産に彼の部屋へ行くと、はやくもお客が数名、狭い部屋の思い思いの場所に座っている。
ヨーロッパ人の部屋らしく、天井の電灯は消され、デスクライトの豆球の温かい色が私たちを照らしている。窓際と、テーブルには数本のろうそく。
薄汚れた漆喰の壁は水墨画だとか書の掛軸、運動会や旅行の写真だとかで、騒がしく埋め尽くされ、見ていて飽きない。
机の前に、ツリーのオーナメントと布の小袋が結びつけられたひもが貼りつけられているのを見つけ、「これはなに?」と聞くと、彼はにっこりと笑って説明してくれた。
昔からの風習だよ。
袋の中にはお菓子が入っていて、クリスマスまでの1ヶ月、一日ひとつずつ開けて食べてもいいんだ。ママの手作りで、ついこないだ、送ってきてくれたんだ。
まわりのヨーロッパ人たちは、ウキウキ度120%でクリスマスの話題に興じている。
中国の新年は2月なので、学校には元旦をまたいだ休みというのはないのだが、それでも帰国して家族とクリスマスを過ごす、と言っている子も多い。
彼らの笑顔の後ろに、家族の抱擁が見えた。
私は彼らの話を聞きながら、一升瓶のスパークリングワインを傍らに置き、部屋の真ん中にあぐらをかいて、おいしく焼けたアップルパイを食べていた。
居合わせた日本の男の子が、「なつさんその姿はまるで酒びたりの海の男だよ」と、顔をしかめる。
私たちが日本で過ごすクリスマスとは、全然違うヨロコビかたをしている彼らが、少しだけうらやましかった。
誰かの会話にぼんやりと相槌を打ちながら、家族や友人の顔を頭の中に並べてみた。去年のクリスマスは何をしていたんだっけ。
酔いのせいか、いろんな思いがいくつも浮かんではまとまらずに消えていく。
テレビの画面が壁に反射する、赤や黄色や青の色がやけにきれいだった。
日本人の彼の横顔もちょっと寂しそうなので、ワインをコップに注いでやりながら「あんた冬休みは日本に帰んの?」と聞いてみた。
パイを手づかみで食べてべたべたになった指をジーンズにこすりつけながら、彼はちらりと私を見て、「いんや」と不機嫌に答え、ワインをグビッと飲んだ。
彼女がやってきてそばに座り、私たちは再びクリスマスの旅行の相談を始める。
クリスマスはどう過ごすのか、と彼女が彼に笑顔で尋ねると、
「日本にいる彼女がこっちに遊びに来てくれるんだ」と、照れくさそうに、ぽつり。
なんだ、そんならどうしてそんな仏頂面してるのよー、とからかっては笑いあう。
ろうそくの光が揺れる、あたたかな夜。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
* * * * * * * * * * * *
紅茶の香りに包まれて、彼の帰りを待ちながら、忘れていたそんな場面を思い出す。

2001/11/27/TUE
[忘れる]
人はどうして、全てのものごとをずっと覚えていられないのだろう。
つい最近のこと。
自分のサイトでほぼ毎日書き続けている日記の、9月分を不注意で消してしまった。
幸いその一部は、後日思いがけないところからひょっこり出てきたのだが、記録がなくなったことに気づいたときはとてもショックで、そのひと月の間にどんなことがあったか一生懸命思い出そうとした。
驚いた。
いろんなことがあって、逐一書きとめていたはずなのに、ほとんど忘れてしまっている。
日記がなくなったこともショックだったが、たった一ヶ月前の記憶が曖昧な自分自身も情けなかった。
8年つきあった末に結婚した彼と昔話をするときでも、私があまりにいろんなことを覚えていないので、よく腹を立てられたり呆れられたり嘆かれたりする。
もらったプレゼントも、その存在すら忘れ去っているものも多いし、一緒に行った場所の思い出話にも、「そうだったっけ?」というさむい反応しか返せないことが多い。
だから、どこかに旅行に行こうと誘っても、
「きみは連れて行ってあげてもすぐに忘れてしまうから、意味がないような気がする」
とつれない返事がかえってくるのだ。
そのくせ、喧嘩のときなどは、
「つきあって半年もしない頃、デートの約束をすっかり忘れて友達と競馬に行って、私に3時間待ちぼうけをくらわせたよね!」
なんてことを今さらのように蒸し返し、
「なんできみはそんなくだらないことばっかり覚えているんだ!」
と情況をますます悪化させる。
「忘れる」ことと同じくらい、「思い出す」という脳の作用もすごく不思議だ。
たとえば夢を見たのをきっかけに、話をしたこともない小学校の同じクラスの男の子を思い出したり、
中学の部活の最後の試合で、接戦で負けてみんなが泣いたのを昨日のことのように思い出したり、
おばあちゃんが亡くなる前に「今度一緒にピザを食べに行こうね」と笑った声が、突然胸に響き渡ったり。
大好きだった人も楽しかったことも忘れてしまうかわりに、苦しかったことや悲しかったことも記憶の海の底に沈める仕組みを、人の心の中に神様はつくったみたいだ。
それらは決して消え去ったわけではなくて、ある日突然、意識の表層にぽつりと浮かび上がってくる。
ため息をついた水草のあぶくが、くらい底からふわりとやってきて、水面で音もなくはじけるように。
カラダもココロも自分のものだと信じて普通に生きているけれど、自分の力でコントロールできるものは実はどこにも存在しない。
大切な思い出も、高かったピアスの置き場所も、気がつけば記憶の底に沈んでいたり、
覚えていたくない最悪の出来事をいつまでも思い返していたりする。
「それで、例の書類は見つかったの?」
上司の声にはっと我に返り、慌てて引き出しをかきまわす。
どこかに大切にしまったはずの、お目当てのブルーのファイルはまだ見つからない。

2001/11/21/WED
[はじめに。書くということ。]
記憶力には全く自信がないので、旅の途中にはできるだけ詳しくメモを残すようにしている。
夕食に何を食べていくらだったとか、こんなおかしな人と出会ったとか、小さなメモ帳にすっかり忘れていたいろんな出来事が詰め込まれていて、後から読み返すととても楽しい。
学生時代にこっそりつけていた日記などは、今では恥ずかしくてとても読めたものではない。
けれど、自分の書いて残した記録には、驚くほどたくさんの情報(それも、忘れていても全く困らない種類の)が内蔵されていて、少なくとも未来の私にとっては、じゅうぶんに価値のあるものだと思える。
私は今、いろいろな形で自分の文章を公開している。
記録することと、それを公けにすることでは意味が大きく変わる。
書きたいという欲望、それ以上の何か。
それはなんだろう、それはいったいどこからくるのだろう。
思い出すひとがふたりいる。
小学二年生の頃は、毎日日記を書いて先生に提出しなければならなかった。
日記帳は、担任の田中先生の感想つきで、終わりの会のときに帰ってくる。
ある日のページの端っこに、
「とても楽しく読みました。私は○○さんの日記のねっしんな読者です」
と赤ペンで書いてあった。
嬉しいのに何だかこそばゆくて、しばらく極端に短い日記しか書けなかった。
(その日の内容が、「落下傘をすべりだいの上から落としてみることがいかに楽しい遊びか」という、熱いルポルタージュ(?)だったことを、今でもはっきり覚えている。)
中二のときとても好きだった同じ班の男の子は、班日誌に「日誌が回ってくるたびに○○さんの文章を読むのが楽しみだ」と書いてくれていた。
ホコリが漉きこまれたような模様のグレーのその班日誌は、勝手に持ち帰って私のたからものにしていたが、いつのまにかどこかへいってしまった。
本人たちはきっとすっかり忘れていると思うけれど、私は彼らの言葉を根っこにして、今でも書きつづけている。
こうして自分以外の誰かにあてた文章を。

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