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| 中国語を使った仕事をしているNATSUさん。 やや放浪癖があり、ひまさえあればアジアをふらふらしてるそうです。 NATSUさんの世界観の引出しを一つずつ覗くことにしましょう。 |
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PROFILE
NAME :なつ
血液型:A型
星 座:うお座
在住地:広島県
好きなもの:コーヒー、マカダミア・ナッツ、ウィノナ・ライダー
嫌いなもの:トマト、集団行動
好きな場所:読書に最適な条件を満たしていて、しかも長居ができるステキなカフェ。(ワガママ)
趣 味:読書・旅・人間観察
■natsuさんのサイト: cozy*days
| ■natsuさんのWEBマガジンサイト: |
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2003/12/10/WED
[ジグソーパズル]
粉をコネコネする料理が苦手だ。パンとか、ピザとか、マントウとか、イーストを使うものを筆頭に、手順の複雑なお菓子も作れない。
理由は簡単、分量をきっちり量れないずぼらさのせいだ。
小さじ1と3分の2、なんて言われると動転して3杯くらい入れてしまうし、20分冷蔵庫で寝かせろといわれてもすっかり忘れて1時間も放置しっぱなし、耳たぶの柔らかさに、と指示されても私の耳たぶはうすっぺらの超ビンボー耳、コリコリ軟骨の手触りがあるばかりでさっぱり参考にならない始末。
ところが彼はこれがうまい。
時間がある週末は、のせる具があるか確認した後、いそいそ粉とボウルを取り出し、私の手を全く必要とせずにピザ生地を作っていく。
きっちり分量通りの材料たちがボウルの中でひとつになり、さらさら粉末、あるいはとろとろ液体であったものが見事にまあるいタネに収斂していく様子に驚嘆の声をあげてしまう。
冷蔵庫の中で寝かされている間にふつふつと発酵し、冷気の中に置かれていたにもかかわらず、ほのかに発熱し、膨張している。見るたび思う。これは料理の範疇を超えている。
変貌を遂げた白い生地を指で押し延ばし、天板に広げてソースと具をのせていく。具の準備は私の係。家にあるものを適当に組み合わせ、スライスすればいいだけの単純作業。チーズをふんだんに振り、あたためたオーブンに静かにすべりこませる。まるで儀式のように。
チーズが溶け、生地が焦げる香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がる。私はベランダに出て、できあがったピザにのせるハーブを摘み取る。
彼はオーブンのまん前に椅子を置いて陣取り、着々と完成に近づきつつあるピザをオーブンのガラス窓越しにじっと見つめる。
「見てなくてもいいのに」と背中を押しても離れず見ている。前にもこの台詞言ったなあ、と思ったら思い出した。洗濯を頼んだら、水がたまって回り出すのをじーっと洗濯機の前で監督していたんだった。全自動なのに。ときどき急に子供みたいになる。思いもかけないところで。
自家製ピザは具が大盛りだ。具の重みに生地が負けるので、片手でぱくぱく食べることができないのが難点といえば難点。
自分で作っちゃいない(作れない)くせに、もりもり食べながら私は反省点を彼に述べる。
生地がもうちょっともっちりしてるといいのに。
ここ生地のばしすぎてソースが下にしみ出てる。
年取ったら自分で釜つくってお店みたいなパリパリしたやつ焼いてね。
「でもおいしいね」
結局はにこにこそこに落ちつく。
おいしいものを食べながら、不機嫌になんてなれない。ましてや彼の生み出した美味なるピザを目の前にしては。
私も彼も知っている。
例えば一人でピザが食べたくなったら、きっとこんな手間をかけて手作りしたりはしないだろう。
彼がいそいそ作るのは、二人で食べるピザ。
おんなじように、私が毎晩作る料理も、彼と一緒に食べるおいしい夕ごはん。たいして料理好きとは言えない私が毎日うまくもない腕を振るうのは、二人で過ごすおいしい時間のため。
おなかいっぱい、まったり休日の午後を過ごしたら、今度は私が腕まくりをしてキッチンに立つ。
計量スプーンもカップも必要ない、有名な料理人のレシピも自分流にアレンジしなければ気のすまない私の、実験的原始的な料理が始まる。
私が彼のピザ作りの緻密な作業を称えるように、背中で彼が私の手際を誉める。
どうしてそんなふうに、何種類もの料理を同時進行できるんだろう。
毎日毎日、違うものを作れるって、料理ってほんと、クリエイティブな能力だよね。
ぱちん。
またひとつ、パズルのピースがはまった音がする。
二人で暮らす時間の中で、ゆっくり組み立てるジグソーパズル。
いいとこばっかり、つるつる平面じゃ決して成立しない。でこぼこがあってこそ、補いあえる、重なりあえる。
ふとそんなことを考えた、秋の休日の夜。

2003/9/5/FRI
[におい]
夕方、河原へ向かう途中、いつもとは違う路地を抜けてみた。
自転車どうしがすれ違うのも難しそうな、舗装のされていない細いみち。
塀のある家やない家が並んでいて、開け放たれた窓のカーテンがゆらゆら無防備に揺れている。
古いたんすの上に埃をかぶった人形ケースが置いてあるのもよく見える。
風の通り道にいぐさで編まれたお昼寝枕が転がっているのもよく見える。
無遠慮にきょろきょろ覗きながら歩いていたら、ある家の居間に面した窓のそばにきたところで、ふいに一陣の風が鼻先を通り抜けて行った。風は匂いをともなっていて、それを嗅いだ瞬間、なぜだか脳裏にぱあっと「りぼん」や「花とゆめ」のぎっしり並んだ本棚のある部屋の光景が浮かんだ。続いて、畳に寝転び、肘をついて分厚い漫画雑誌のページをめくる自分の姿も。ぱっぱっぱっとまぶたの裏ではじけたその記憶の断片に、少しだけ胸が痛いような、鼻がつんとするような変な気持ちになってしまう。
今のはなんだろう。すぐにはそのつながりがわからなくて、私はその家の前でたたずんで、かすかな空気の動きにつれて流れてくるその匂いを嗅いだ。何か特定のものの匂い、というよりも、その家のもつにおいのようだった。家具のような、洗剤のような、体臭のような、その家に属するもの全ての発する匂いをすべて混ぜてとかしたような。
そこまで思って、ようやく気がついた。
小学校のとき、近所に住んでいた子の家の匂いだ。学校の行き帰りはいつも一緒で、放課後必ずその子の家に寄って漫画を読ませてもらっていた。忘れ物が多かった私は、クラスの違う彼女にときどき体操着を借りた。彼女の体操着は彼女にしかない匂いがして、てっきり体臭なのかと思っていたら、家全体がその匂いだった。借りた教科書も、読ませてもらう漫画本も、鼻を寄せてみれば確かにその匂いがした。
懐かしいなあ、と、もう一度だけ深呼吸して、その家から流れてくる匂いを確かめて再び歩き出したけれど、何度頭をひねっても、その子の名前も顔も思い出せない。
小さな家で、勝手口から入って台所を抜けたら6畳ほどの居間があり、大きな本棚は彼女と弟の漫画雑誌でいっぱいだった。居間に子供二人の学習机があって、そこ以外にはもうひとつしか部屋がなくて、いったいこの家はどんなふうに夕食の後の時間を過ごしているんだろうと、子供ながらに不思議に思っていた。こんなにしっかり、家のディテールまで思い出せるのに、彼女の顔が思い出せない。
「こんにちは」と小学生が挨拶して私の横を通り抜けて行った。
「こんにちは」
現在と過去がぐるんとひっくり返ってしまうようなめまいを覚えながら、私も小さな女の子にぺこりと頭を下げた。
河原を散歩して、家に帰りつく。
玄関を開けてすぐに鼻をひくつかせてみると、よく焚くお香の匂いがかすかにするだけだ。他にはなにも感じない。
けれど、あの子のうちのように、外からきた人にしかわからない我が家だけの匂いというのがきっとあるんだろう。
窓を開けて空気を入れ替えていると、隣の部屋から魚を焼く香ばしい匂いが流れてきた。

2003/8/22/FRI
[雷鳴]
よく雨が降る夏だ。
夕方になると風がうなり雷も鳴り響く。土の濡れたような、雨の匂いが漂う。ベランダで鼻をひくつかせる私。やがて、たらいをひっくり返したみたいに大粒の雨が降り始める。
雷が好きだ。
暗くなった空に稲妻の走る夜は、カーテンを開け放し、部屋の電気を消して座布団の横にキャンドルの灯りをともし、窓際にぺたりと座って雷鑑賞。
小学校の頃、大木に雷が落ちる瞬間を目の前で見た。
その様子は今でもきちんと描写できるとは思うのだけれど、なにせその記憶が事実かどうかがわからないので躊躇する。ショッキングなその体験は、何度も幼い私の言葉で語られ、繰り返し再生され、ある部分は違う記憶に置き換えられているはず。強い印象の思い出のワンシーンに、自分の姿がきちんと入っているように、記憶は正確な記録ではありえない。その出来事についての私の記憶は、もう私だけの体験でしかない。
そんな恐ろしい体験をしたのに、どうして雷が好きなんだろう。
どんよりと厚い雲のかかった暗い空から、大粒の雨が街の光を白く映してぼつぼつと落ちてくる。遠くの低い雲のすきまから、藤色の細い光が縦に走り、重い雲の表面を照らす。少し間を置いて、ゴロゴロというよりはバリバリと鉄の太鼓を打ち鳴らすような、激しい雷鳴。
朝になると、街は何事もなかったかのように乾いた夏の横顔を見せている。ベランダのグリーンたちの色つやが、いつもよりすがすがしい。汗ばむ肌を撫でていくぬるい風が、緑の葉をかすかに揺らす。
昨日の雷も、もう私だけの記憶でしかない。
寝苦しい夜にうんざりしている間に、夏は通り雨のように過ぎていく。
この夏にラベルをつけよう。匂い、色、温度、五感を駆使して、今だけの私を捕まえておこう。
時間を超えて、いつかきちんと思い出せるように。稲妻のようにはっきりと。私だけの記憶。夢に似た。

2003/7/2/WED
[血縁]
哀しい席だったけれど、そこには懐かしい顔ぶれが揃っていた。
10年ぶりに会う親戚のお兄ちゃん、しんちゃんは奥さんと子供を連れていた。
彼の弟、かんじくんとはものごころついてからはじめての対面だった。
しんちゃんと昔の思い出をなつかしんだのとは正反対に、同い年の彼とはぎこちなさがいつまでも抜けなかった。いろいろ話してみたい、と思ったけれど、なぜかしんちゃんを真ん中に挟み、彼を通訳のようにしてしか会話ができなかった。かんじくんはしんちゃんの奥さんと友達みたいに仲がよくて、それがほんのすこし羨ましかった。
夜中、しんちゃんが「子供のベビーパウダーを忘れてきた」と言った。お酒を飲んでいなかった私が車で買いに行ってくると立候補したら、かんじくんもついてきた。
車に乗ってしまったら、かんじくんは急にお喋りになった。
ややこしい子供時代を過ごしたこと。穏やかな家庭を手に入れたくてしんちゃんは若くして結婚し、自分は逆に家庭というものを持ちたくないと思っていること。趣味のこと。好きな音楽のこと。
私とかんじくんをつないでいるのは、不確かな血縁だけだった。自分の父親とつながっている、誰かの息子。聞けば「へえそう」と思うけれど、何の実感もない。別々の場所に暮らして、これまで何の接点もなかった。存在さえ知らないも同然だった。
そんな二人がこうして夜の街をベビーパウダーを求めてドライブしている。なんだか不思議な気持ちだった。私たちは、神様が気まぐれにつまみあげて並べて置いた、チェスの駒みたいだと思った。きっとまたすぐにばらばらになって会うこともない。それもわかっていた。
開いている薬局はなく、コンビニにもベビーパウダーは売られておらず、途方に暮れていたら温泉街の裏道に小さな薬屋が明かりをこぼしていた。コレクターに見せたら高く売れそうな古いブリキの看板がたくさん貼られた入り口の奥に、小さなおばあさんがちょこんと座っていた。無事ベビーパウダーを手に入れ、車に戻ったけれど、どうしてだかもっと話をしていたくて、人通りの少ない国道を家とは逆の方向に走り始めた。かんじくんはそれからもたくさんしゃべった。私もいろいろなことを話した。私たちの間には曖昧な距離があった。男友達よりは親密で、弟よりも他人。多分その微妙なバランスをうまく保とうとして、二人ともいつもより饒舌になったんだろう。
トンネルをいくつか抜けたところで、私はやっと車をUターンさせた。
血縁、というのは厄介なものだ。生まれたときから、自分の意思とは関係なく、誰かとつながっている。楽しいことで会うことはほとんどなく、会ったこともないような人たちの緊急事態のために、呼び出されたり、働かされたり、悩まされたりする。
けれどときにはこうして、奇妙な連帯感を持ちながら語り合える人をプレゼントしてくれることもある。
血のつながりを持った同い年の男の子。家族よりも希薄で気軽な、けれど他人とは思えない、適度に軽くあたたかい親密さ。
明くる日、しんちゃんたちは新幹線で彼らの住むまちに帰っていった。
携帯の番号は交換したけれど、きっとかけることなんてないだろう。私たちは別々の場所で、別々な暮らしを積み重ねてきた。きっとこれからも別々に生き続ける。再び会うのはきっと何年も先で、今回のように哀しい集まりの場所なんだろう。
けれどときどき、遠い場所に住む彼のことを思い出す。
赤い糸ではないけれど、見えない鎖でつながった、「壊すのがこわいから家庭は持たない」とさみしげに笑う同い年の男の子が、今、どこでどうしているだろうかと。

2003/5/21/WED
[草むしり]
草むしりのバイトをしたことがある。
梅雨入り前の、ちょうどこの時期だった。
昼食つき、2日間。学生課の掲示板を見てすぐに申し込んだ。自分の家の庭の草むしりに学生を雇うなんて、お金持ちなのかそうでもないんだかよくわからないな、と思いながら、当日その家を訪れた。
高い塀に囲まれた、大きな家だった。門は開け放たれていて、飛び石がゆるいカーブを描いて奥に続いていた。
背の高い木々がうっそうと茂る庭の後ろに、平屋の日本家屋がどっしりと腰を据え、庭に面した長い縁側にワンピースを着た老婦人が座っていて、「いらっしゃい」と微笑んだ。
庭には、徹マン明けの男子学生の風貌めいた、だらしない雰囲気が全体にあった。並べられた石なんかには素人目にもお金がかかっている感じがするのに、植木はしばらく剪定された様子もなく、池はにごって底も見えなかった。生え放題の雑草は、ひどいところでは膝まで届くほど成長していて、なるほど2日間はゆうにかかりそうな荒れた状態だった。
私のほかに、男子学生が二人来ていた。私は草むしり専任で、彼ら2人は1日目は池の掃除、終わり次第私と合流ということだった。朝9時半から始めてお昼に一時間休憩して、3時半まで6時間、を2日間。
しゃがんで、手の長さの半径の中にある雑草を黙々と抜いていく。草むしりは嫌いではなかった。無心に手を動かしていれば結果が目に見えて表れる単純作業が私には向いていると思う。
日陰は土が湿っていて、軍手をつけた指でつまめばすぐに抜けるが、乾いたところは根が途中で切れてしまう。そのままにしておいてもばれないだろうが、なんとなく気がとがめて、道具を使ってきちんと根まで引っこ抜く。じりじりと移動しながら黙々と作業を続けていると、掘り返された新しい土の色の面積と、抜かれた雑草を集めた小さな山の数が、次第に増えていく。
しゃがみっぱなしで体が痛くなり、立ち上がって伸びをして、腰をとんとん叩く。
池の中ではジャージの裾をまくりあげた男子二人が、ぬめった苔を棒ずりで擦っていた。変な生き物がたくさんいると言って、赤毛短髪の方がおびえ、のっぽ長髪の方は、老婦人が「下水に流していい」と言ったメダカたちを救うにはどうしたらいいか、深く悩みつづけていた。ちょっと楽しそうで、私もそちらに参加したいと思ったけど、転んだときの着替えを持っていなかったので、言い出さなかった。
お昼は外の水道で手と足を洗い、縁側に腰掛けて食事をした。店屋物で、なぜか2日とも、男子2人はカツ丼で、私だけがカツサンドだった。理由を聞きたかったけれど聞けなかった。
奥にいるらしい老婦人の気配はとても希薄で、高い壁に阻まれて、外の喧騒も聞こえなかった。
私たちはお盆に初めて顔を合わせた親戚の子供たちのように、黙って並んで座り、庭を眺めていた。
「ペース速いね」と赤毛短髪が私に言ったので、「そうだね、君たちの分も残しとかないとね」というと、のっぽ長髪が女の子みたいにくすくすと笑った。それから彼は私に、「経済学部でしょ。××知ってる?友達なんだ」と尋ねてきたけど、私はその人を知らず、会話はそれっきり途絶えてしまった。
喉がかわいてかわいて、麦茶をたくさんおかわりした。
私はしゃがんでカニ歩きでその家の内周をひとめぐりし、ほとんど一人でその家の敷地に生えた雑草をむしり終えた。
途中カヤの葉でふくらはぎを切ったのと、ムカデを発見したときのほかは、クモもミミズも気持ち悪い何かの幼虫も、寡黙に一人で対処した。蛇が出たら叫ぼうと思っていたけれど、蛇は出なかった。
2日目の午後、仕事を私に奪われた男子たちは、外回りの溝さらいをさせられ、ドブのにおいが体にしみついた、とぼやいていた。
2日間の仕事を終え、気配の薄い老婦人から報酬を受け取ると、赤毛短髪が「打ち上げでもしに行かん?」と言い、のっぽ長髪はうなずいた。私は別のバイトが入っていたので一緒に行けなかった。道沿いに長く続く塀のそばで、「バイバイ」と手を振って2人と別れた。

2003/5/13/TUE
[マスカラ]
以前にも書いたことがあるけれど、Rは留学時代べったりとくっつきあって生活していた私の友達。
肌はぬけるように白く、瞳は冬の空みたいに清んだサファイア色の北欧美人。
父親の仕事のせいで、小さな頃からアジアに暮らしていた彼女は、変なところでアジア人に似たはにかみ屋の一面を表し、私を笑わせていた。
Rには小さな「こだわり」がいくつかあった。
羨ましいサイズと形の胸のくせに、キャミソールなど胸を目立たせる服を嫌い、根元のほうが褐色に見える自分の金髪を気にして、おしゃれして出かけるときには驚くくらい逆毛を立てた。
なかでも、Rがいちばん気にしていたのがまつ毛だった。びっしりと青い瞳を縁どるまつ毛の金色が彼女には不服なのだ。
髪はブロンド希望のくせに、まつ毛は濃い色のほうがいいらしい。
「毎日マスカラをつけないと、まるで裸でいるような心もとない気分なの」と彼女は言った。
授業へ行こうと迎えに来た私を毎回待たせ、慌てながらRは鏡に向かう。
あごを突き出し、口を半開きにして、マスカラのブラシでそのうつくしい金色を黒く塗りつぶす。
左右に首を振って念入りに点検し、満足げな顔で「お待たせ」と振り向く。
それまではマスカラをほとんど使わなかった私も、それ以来使うようになった。
短くてまばらなまつ毛ではあるけれど、使用前と使用後ではやはり印象が違う。ファンデーションを塗らない日でも、とりあえずマスカラだけははずせない。
ビューラーでまつ毛をカールさせながら、自分自身とにらめっこしてまぶたをぱちぱちさせていたRの鏡ごしの顔を思い出す。
「まだ?」と待ちくたびれた声で彼が私を呼ぶ。
「ちょっとそこまでなんだから、そんなのしなくっても」
「マスカラつけないと、服着てないみたいに居心地悪いのよ」
そう答えて、右、左、と横顔を映して納得がいってからやっと、彼を振り向く。
「ごめんごめん、おまたせ」
そうして鏡の前を去るその一瞬に、時差8時間の遠く離れた土地で今日も熱心にマスカラを塗っているであろう、うつくしい友の笑顔を見るのだ。共犯めいた。

2003/4/8/TUE
[地図を片手に]
持っている地図を回転させた時点で、その人はすでに「地図の読めない人間」なんだ、と昔誰かに言われた。
私は自分の書いた地図を手にしている。
海に近い場所で、まだ青く広がる水平線は見えないにしろ、どこからともなく潮の香る風が吹いて来ていた。
私は地図が読めないし、方向感覚もゼロに近い。
絶望的な気分で地図を回して、来た方向が手前にくるようにした。
道を誤っている気がしたけれど、ここまで来てしまったのだ。ひきかえせるはずもない。
不安な気持ちで枯れ草を踏みしめ、細い道を歩いていくと、ようやく海に面した場所に出た。
切り立った崖は波に削られるようにUの字を描いていて、右手の岬の突端に古ぼけた家が小さく見えた。
それが私の目指していた場所だった。
ほっと息をつきながら、ごつごつした岩の上を歩いていく。海からの風が身体にぶつかり、足元がふらつく。
家は木造の二階家で、昔の校舎のような造りになっている。
(また来てしまった)と思いながら二階への階段をのぼる。
踊り場には葉の厚くて平たい観葉植物が置かれている。
色のない景色の中で、それだけが強い色を放っている。
2階に上がり、私はそのひとを探す。
部屋の様子をひとつひとつ確かめながら、私は徐々に悟っていく。
ああ、あのひとはもういなくなってしまった。もう逢うことはないだろう、二度と。
悲しくて涙が出る。
間に合わなかったわけでもない。道を間違えたわけでもない。
そこにたどりついたけれど、ただ、逢えなかったのだ。
階段を降り、家をあとにすると、白い猫が2匹、寄りそって座っている。
猫は私を見上げてニャアと鳴く。片方の猫は、片目がブルー、片目がゴールド。
彼らと向きあってじっとたたずんでいると、ふいに気がついた。そしてまた泣きたくなった。
ああ、私の逢いたかったあの人は、ここにいる。
***
よく見る夢の話である。

2003/3/19/WED
[指輪]
ダイヤが3つ埋めこまれたシンプルなプラチナのリング。
普段私の指にはまっているのは、それ1個きり。
けれど何年か前には、毎日とっかえひっかえ、指輪のおしゃれを楽しんでいた。
そして、これは私だけではないはずだけれど、
今小箱の中でしずしずと休んでいるたくさんの私の指輪たちの多くが、かつて誰かからのプレゼントとして私のもとにやってきた。
女友達からのシルバーリングもあれば、昔の恋人のものも。
過去の恋人の数もたかがしれているので、指輪を見ればたいてい、彼らの顔を思い浮かべることができる。
もらった指輪を持ちつづけているなんて、と反感を抱く人もいるだろう。
実際、わかれた直後は、捨てるかどうするか処置に悩んだ。
値段の高い安いではないけれど、迷う理由はやっぱり「もったいない」からだった。
そうして今、ほとんどのものが手元に残っている。
私の手はとっても地味だ。爪もまるっこいし、指はただ細いだけで色気がない。
大ぶりのリングには負けてしまうし、重ねづけもなんだかオーバーに見える。
そういうわけで結婚してからはシンプルな左薬指のリングひとつきりで過ごしてきた。
歳を重ねるごとに増えてきたその指輪たちを久しぶりに磨いてやった。
子供っぽいものも、年寄りくさい濃い色の石をのせたものも、みんないとおしい。
それは私の所有するモノとしてではなく、共に同じ時間をくぐり抜けてきた友としてそこにある。
なめらかな金属の表面に、光が反射して白くきらめく。
その輝きといっしょに、重ねた時間の記憶もまぶたのうらでスパークする。
指から外してもしばらくのあいだ、指輪は自分の体温を残し、なまあたたかく息づいている。
たくさんの国の人々をとりこにしたあの物語のマストアイテムが、ほかでもない指輪であることも、納得できる不思議な存在感。
捨てなくてよかった。

2003/2/20/THU
-2〜3月のテーマ『My Gift to You』-
[小さな国への贈りもの]
ピーコちゃんと呼ばれる友達がいる。決してあのオカマさんではなく、若くて可愛い女の子。しかも金髪青い目の異人さんである。
ピーコちゃんはニュージーランド人で、ベジタリアン(卵と牛乳はOKらしい)。長い髪をおでこで分けて、細い身体にはいつもシンプルなトップスにジーンズをつけている。噂によるとピーコちゃんのピーは「ヒッピー」のピーで、誰かが冗談でつけたあだ名を本人が気に入って使っているらしい。
彼女につかまるといつも、あやしい日本語と英語のちゃんぽんで説教をくらう。
なので私はちょっぴり彼女が苦手である。
ゴミの分別がまったくなっていない私を見て、ピーコちゃんは怒る。
100m先にあるコンビニに車で行く私を見て、ピーコちゃんは地団駄を踏む。
スーパーで買い物して、いっぱいビニール袋をもらって帰ろうとする私を見て、
ピーコちゃんは日本語に訳してはイケナイ言葉をつかって罵倒する。
そしてまた今日も私は、ピーコちゃんを怒らせてしまった。
「昔に比べたら、雪の量も減ってきてるよねえ」とあったかい部屋でのん気に話す私たちに、ファンヒーターのスイッチを切らせたあと、彼女は話してくれた。
南太平洋に浮かぶ、小さな島国、ツバルのこと。
ツバルはいくつかの島からなる、世界で2番目に小さな国。人口は1万1000人。
首都であるフナフチ島をはじめ、国土のほとんどは、ラグーンを土地がぽつぽつとネックレスみたいに囲んでいる環礁島だ。
(理解力のない私たちにピーコちゃんは、流しにある洗い桶の中に水をはり、その中にスープ皿を沈めて見せた。スープ皿の縁だけがかろうじて水面から出ている。島のその部分に、人が住んでいるというわけだ)
ぺったんこな島たちの平均海抜は2メートル。
「雪が少なくなって助かっちゃう」のは地球温暖化のせいである。雪が降らないだけでなく、あっちこっちの氷も溶ける。2100年までに地球の海面は最大88センチ上昇する、と予測されているそうだ。
「そうすると、ツバルという国は消えます」
ピーコちゃんは洗い桶に水を足し、スープ皿を溺れさせ、いつもより色の濃くなった瞳で私たちを見まわす。ニードレストゥセイ、と彼女は英語に変えて続ける。
「言うまでもなく、海面上昇は彼らのせいではなく、先進国のエネルギーの無駄使いが原因です、家族に一台ずつ車のあるような、あなたたちを含めて」
もうすでに、沈んでしまった島もあるのだという。近い将来、国土が生活できなくなるほど海水に侵食されたときのために、すでに国民の移住の準備も進められているのだそうだ。
「雪が少なくなった、去年より暖かくなった、そう感じるたびにどうか他人の過剰に豊かな暮らしのためにふるさとを奪われる南の島の人たちのことを考えて、そして少しでもその日が遠くなるように、何か行動を起こして下さい」
ピーコちゃんは厳かに言った。私たちは黙ってこうべをたれる。
ひとごとのように同情しそうになるが、考えてみれば日本だって島国、同じアパートの下の階に住んでいる彼らが先に住みかを失うということは、いずれ私たちの番もまわってくるということだ。
彼らが困っているのを知らんふりしておいて、自分の階まで水が来た頃にやっと慌てるんじゃ遅すぎる。
ガソリン、電気、ガスをむだ使いしない。
しなければならないのは、そんな簡単なことなんです。
初春のうららかな日に、「あたたかいなあ」と感じたら、やがて消えゆく小さな国のひとびとのことを思い出したら。
お願いします。
私たちが彼らへプレゼントできる、ささやかだけれどすばらしい贈り物を。
かわいいけれど怒りんぼうのピーコちゃんも、きっと喜んで笑ってくれます。

2003/1/20/MON
[空を見上げる]
今日、川沿いの道をてくてく歩いていて、ふと空を見上げると、ものすごくきれいな青空が広がっていた。
冬の空らしく透き通っていて、おまけに雲ひとつない。ひょろりと流れる飛行機雲の1本さえ見当たらない。
あんまりきれいなので、立ち止まって、ぐっとあごを上に向けて、じいっと空を鑑賞してみた。
よく見ると、空のてっぺんと、ビルの屋上や山際と接する比較的低いところでは、色が全然違う。
頭の真上のあたりの色は、まるでボンベイサファイアみたいに、研ぎ澄まされた深く透明な青。
それが、地上に近づくにつれて徐々に薄められていく。まるでカウンタの隅に忘れられた、カクテルグラスの中の液体みたいに。
かすんだ山の稜線と触れ合う頃には、その青さはまるで真昼の月みたいに霞んだ白に変化している。
ぼんやり見上げていると、自分がまるで、半球の中心にいるような気がしてくる。
青い色水がたまった半球の中に沈められたこの街。
そう、お土産屋さんにときどきある、軽く振ると雪に似せた白いつぶつぶが、ふわりと舞い上がる、あの置物みたいに。
神様みたいな誰かが、半球のずっと上の方からこの世界を見下ろしていて、ときどききまぐれに半球を揺すると、この世界にふわりふわりと雪が降る。
空から向かうべき場所へと視線を戻し、立ち止まっていた場所から足を踏み出す。
たまにはこんなふうに、立ち止まって青い空を見上げ、妄想にふけるのもいいもんだな、と、巻きなおしたマフラーの中でくすりと笑ってみる。

2002/12/20/FRI
[10 years]
ラジオから渡辺美里の「10YEARS」が流れてきた。
あれから10年も、
このさき10年も。
18歳か。あの頃何してただろう、と記憶の糸を手繰り寄せると、夜中にぼんやり頬杖をつく、受験生の私がいた。
高2から高3にかけてのぴったり1年間、私は5歳年上のひとに恋をしていた。
背が高くて、理系で、そしてB'zの稲葉さんにそっくりな男前だった。ちょうどB'zも人気が出てきた頃で、そのひとの面影を追い求めてるうちに、B'zのファンになってしまった。
5歳の歳の差。今なら平気で鯖を読めるくらいちっちゃな溝なのに、当時の私にはとても飛び越えることなどできそうにない、深くて暗い谷だった。大人の集団の中にまぜてもらった高校生の私を、そのひとは完全にお子様扱いしていたけれど、それでも近くにいられたり、遊んでもらえたりするだけで嬉しかった。
受験の1年はお正月を頂点にした山のようだった。行く先の見えないままひたすら登りつづけ、頂上を越え、センター試験を受けるとあとは結果へ向けて一気に転がるように時間が過ぎ去った。
無事に大学に合格した次の日曜日、私は図書館の近くの公衆電話から、そのひとに電話をかけた。合格したら告白しよう、そう決めていた。
合格するためにそう決めたのか、告白したいから合格したかったのか、自分でもよくわからないくらい切実に、そう決心していた。
四角いガラスの箱の中、白い息で、何度も深呼吸した。
携帯電話なんて便利なツールがない時代だった。両親と同居する大人の男のひとの家に電話をかけるなんて、大事件だ。
家にいなかったらどうしよう、親が出たらなんて言おう。そもそも、この告白、本気にしてもらえるんだろうか。希望がないのに、チャレンジする意味なんてある?
番号を最後までプッシュするのにいったいどれだけかかっただろう。何度も上げ下ろしした挙句、汗ばんだ受話器からやっと呼び出し音が聞こえてくる。ガチャリ、と電話線の向こうで受話器をあげたのは、そのひとのお母さんだった。想像していたよりも年寄りじみた、ひややかな声で応対されて、私は額と背中に冷たい汗をたくさんかいた。
「もしもし」
長すぎる無音のあとに、大好きな人の声が聞こえてきた。
私はどもりながら名を名乗り、ずっと好きでした、つきあってくださいと告げた。当惑した沈黙とか、驚きをかくすための笑いとか、そういうのにもちゃんと耐えようと覚悟していたけど、そのひとは「うーん、そっかあ」と感慨深げに息をはいたあと、とても丁寧に、私の気持ちを受け入れられない理由を伝えてくれた。
動揺していたからか、何と言われたのか今でははっきり思い出せない。彼女がいる、というのでもなかったし、年齢のせいでもなかったし、あからさまな拒絶でもなかった。私は断られたというのに、なんだかほっとしたような気持ちで「わかった」とうなずき、志望大学に受かったことをことさらはしゃいで宣言したのだった。
「受かったら告白するって決めてたから、頑張れたんだ」
「おめでとう、わざわざ電話、ありがとう」
ありがとうと思いもかけない言葉に、強がっていた私の糸がぶつんと切れた。
「家にいてよかった、パチンコで負けて財布に千円しか入ってないから、休みなのにどこにも行かれんで」と電話の向こうで笑うそのひとの声を聞きながら、私は涙をこらえていた。その笑い声をハンカチにくるんで一生の宝物にしたい気持ちだった。
そのとき予感した通り、そのひとと話らしい話をしたのは、それが最後になった。
「電話でならいつでも話そう」と言ってくれていたのに、両親が出る可能性の高い家の電話にはやはりかけづらく、ときおり顔を合わせたときには私のほうがどんな顔をすればいいのかわからず、避けてしまっていたから。
大学生になり、その刺激的で忙しい毎日に、過去の片想いの未練をひきずる余裕は1ミリたりともなくなった。そのひとのと同じ車を道で見かけても、心臓がきゅっとなることもなくなった頃、同級生の男の子との恋が始まった。
あの時代に携帯電話があれば、この恋の行方も変わっていたかもしれないけれど、お子様の恋の告白にまじめにつきあって、「ありがとう」とまで言ってくれたそのひとのやさしさで、あの片想いは美しく完成されたんだな、と10年後の私は思う。
どんなに恥ずかしいことやっちゃっても、苦しくて涙ばっかりの片想いでも、じたばたみっともなくあがいても、こんなふうにやさしく思い出せる、恋ができてよかった。
あれから10年も。
(よくよく数えてみましたら、11年前のことでしたけれども。)

2002/12/4/WED
[その涙]
まだ赤いランドセルを背負っていた頃、住んでいた家の隣りに、おばあさんと男の子が住んでいた。男の子は私と同じくらいの年恰好だったけれど、同じ学校には通っていなかった。
血はつながっていないという噂のそのおばあさんと一緒に、一日中、家で過ごしているようだった。
男の子は自閉症だ、と、近所のおばさんたちは言っていた。
そこは家と家をさえぎる塀もあるかないかの土地に、平屋の借家がぽつぽつと数件並んでいる、いなかの住宅地。
男の子は赤ちゃんのような言葉にならない言葉をもごもごつぶやきながら、毎日誰かの家のそばで、ひっそり静かに遊んでいた。
会話で意思の疎通ができないから、彼を恐がったり疎ましがったりする人たちも確かにいた。
けれどその男の子のことを、私は嫌いではなかった。
ときおり高い声で何か叫びながら走っていくのがちょっとこわかったが、クラスの男の子たちのようにいたずらもしないし、意地悪もしない。
土いじりが好きなようで、私の勉強部屋の窓の下で、木の切れ端でなにか一心に描いているのをしょっちゅう見かけた。ぶつぶつと何かつぶやきながら、楽しそうに地面に何かを描いていた。
せめて挨拶くらいはしてみたかった。
おそるおそる、声をかけてみても、男の子は決して目を合わそうとせず、よろよろとした足取りでその場を離れてしまうから、そっとしておくことしかできなかった。
おばあさん以外に、男の子が好意を示すひとが、近所に一人だけいた。
彼女は小学生の姉弟のお母さんで、早くに結婚して歳はまだずいぶん若かった。おそらく当時、今の私とあまり変わらない年齢だっただろう。専業主婦で、家の前に小さな家庭菜園を作って、毎日丁寧に世話をしていた。
彼女は畑の雑草を抜きながら、背後で用心深く土に絵を描いている男の子に話しかけ続けた。
「ほら見て、すいかの小さい実がなってる。これって、うちの娘がすいか食べながら飛ばした種から芽が出たのよ」
「ねえねえ、てんとうむし。かわいいよ、来てごらん」
まるで体のまわりに透明なバリアがはってあるかのように、人に近づこうとしなかった男の子と彼女との距離が、次第に縮まっていった。
近所の人たちは、畑にしゃがみこんだふたりがしっかりと手をつないでいるのを、驚きと好奇で輝かせた目で見守っていた。
何度も男の子に話しかけようとチャレンジしたのに、一度も成功したことがなかった私は、彼女がいったいどうやって男の子の心をひらいたのか不思議で、うらやましくてたまらなかった。
ある日の学校帰り、彼女と男の子が手をつないで歩いているところにでくわした。
彼女はたえず男の子になにか話しかけていた。けれど背をかがめた男の子の視線はずっと斜め下、自分のつま先にそそがれていて、一見まったく彼女の話を聞いていないように見えた。
でもよく見ると―、男の子の右手はしっかりと、彼女の左手を握っていた。
そのとき、近くでままごとをして遊んでいた幼稚園の女の子が、キッとこっちを見て言った。
「おばさん、その子の近くに行っちゃダメよ、その子はバカで、あぶないのよ!」
私は子供心に、この言葉はそっくりそのまま、女の子のお母さんが口にしている言葉なんだな、と理解した。子供にとって、ママの言葉は絶対だ。
きっと怒り出すだろうと、私は男の子の手をひいた女性を、息を詰めて見守っていた。
ところが。
彼女は、大人のくせに、突然ボロボロと涙をこぼして泣き始めた。
鼻の頭はあっという間に真っ赤になった。
「この子はあぶなくもないし、バカでもないよ。ナオちゃんもお友達からそんなこと言われたら悲しいよね。おばさんもすごい悲しいよ」
鼻をすすって、ボロボロ泣いている彼女を、女の子はびっくりして見上げていた。自分の言葉が誰かを傷つけるなんて、女の子自身思ってもいなかったのだろう。
男の子はうつむいたままうめきだし、やがて「ウー、キャー」と甲高い奇声をあげて、自分の家に向かって走り出していった。いつもは私も恐ろしかったその彼のわめき声。けれど私はそのとき、それを聞いてはっきり彼の気持ちを感じ取った。
それは幼稚園児にののしられたからじゃない。
大好きなおばさんが泣いているのが、とても悲しかったのだ、きっと。
みっともなく道端で泣いている彼女を見つめながら、そのひとが自分の母親であることを、私は心から誇りに思った。

2002/11/13/WED
[女3人]
遅れてきたひまわりは言った。
「私の今日の運勢は、絶対に最悪のはずよ」
よく見ると、白目の部分が充血していて、マスカラが溶けて下まぶたに薄くくまをつくっている。
「なんかあったの」
痩せて快活なひまわりとは対照的な専業主婦のつばきが、ぷっくりした頬をケーキでもぐもぐさせながら尋ねる。
水曜日の午後だった。ホットチョコレートのとびきりおいしい店があるからと集まった。水曜日はひまわりの仕事も休みだったから。
いつも笑顔がたえないひまわりのその落ち込みぶりに私も同情はしたが、自分自身もそれどころではなかった。仕事にも、プライベートにも、「こうならないといいな」と危惧していた最悪の事態が訪れていた。にっちもさっちもいかないとはこういうことだ。
そんな憂鬱を抱えつつやってきたこの約束の場所が、ココアのおいしい店でよかった。
コーヒーを飲んでいると、意識をどんどん鋭く掘り下げていかないといけないような気持ちになる。けれどココアというのは、眉間にしわを寄せて考えるのが似合わない。陽だまりに寝そべる猫みたいに、ぽわーんと気持ちをときはなつことを許してくれる。
ぽってりとしたカップの中で、甘くとろりと揺れる液体を眺める。湯気と香りが鼻をくすぐる。
ずずっと鼻をすすって、ひまわりは目の前に置かれたホットチョコレートに口をつけた。
この店を推薦したつばきが、「おいしいでしょ」とひまわりの顔を覗きこみ、うなずいたのを見て今度は私に「ほら。辛党がおいしいっていうくらいだもん」と自慢げな笑顔を向ける。
「聞いてくれる」
とひまわりは切り出した。
今日ね、仕事が休みだったから、産婦人科に行ってきたの。このところ、基礎体温が低いまんまで、生理も不順で、気になってて。
まるまる午前中を待合室で過ごしたのよ。朝早く出かけていって、診察してもらったのは11時過ぎ。なんて言われたと思う?無排卵月経なんだって。2週間のホルモン投与。ストレスじゃないですか、って気の毒そうに言われちゃったよ。
あー、私は仕事にかまけてる間に、子供を産むというまともな機能も失っちゃったのか、て思うと、情けなくってさ。でもまあ、そのときはそんなに取り乱したりはせずに、病院を出たの。
それから銀行に寄ったの。忙しい日でもない、そんなに客が多いわけでもないのに、もんのすごく待たされてね、猛烈にイライラしちゃった。待たされた挙句、窓口の女の子がしれーっとして、「お待たせしました〜」って言うのに、ギロって睨んだりしちゃってさ、ほんと、ばかみたいなんだけど。
で今度は、ここに来る途中に1ヶ所ものすごく細い道があるの。そこをゆるゆる通ってたら、ちょうど古いおうちが解体されてる途中で、ショベルカーで狭い道がふさがってたの、まったく間の悪いことに。痩せて真っ黒なおじさんがやってきて、「悪いけどバックして戻って迂回して」って、車の後ろに回って親切に誘導してくれたの。
けど、ほら、あたし運転下手じゃない?前進するのさえ恐る恐る入ってきた道を後ろむきで戻るなんて、ほんと、つらかったのよ。やっと脱出して、謝るおじさんに、あたし思わず、「通れないなら立て看板くらい出しといたらいいでしょう!」て怒鳴ったのよ。そしたら訳もわからずぶわっと涙が出てきて、おじさんそれ見て、何度も何度も頭を下げて謝ってた。おじさんが悪いわけじゃないのにね。
そしたら今度は、おじさんに悪いことしたなあ、あたしってなんてイヤな女、って自己嫌悪。また泣けてきちゃって。
手入れの行き届いたバッグから、ハンカチをとりだしてひまわりは目頭を押さえた。
こういうときに口を開くと、必ずとんちんかんなことを言ってしまう私は、黙ってつばきの顔を見た。彼女は私の顔をちらりと見た後、ペーパーナプキンに手を伸ばし、唇を押さえながらこう言った。
「だめよひまわり、そんなことで悲劇のヒロインぶっちゃ。薬飲めばすぐ治るわよ、そんなもん。気にしちゃダメ。世の中にはもっと悲惨なできごとがたくさんあるのよ、たとえば私なんか」
ひまわりはハンカチから顔を上げ、じっとつばきの顔を見た。好奇心は哀しみより勝るのだな、と思いながら、私も興味津々でつばきの次の言葉を待つ。
先週の金曜よ。子供を幼稚園に送った後、行きつけの喫茶店に寄ったの。そこ、めちゃめちゃ男前の店員がいてね、私をはじめ、奥さま方が店に通うのも当然、彼目当て。
その日も、朝だからお客も少なくて、そんなに焦らなくてもいいだろうに、なぜか彼、隣りのお客さんのコーヒーをテーブルに置く寸前に、ひっくり返しちゃったの。私は素早くカバンからハンカチ引っ張り出してね、お客の膝にこぼれる前にテーブルの上のコーヒーを拭いてあげたわよ。これできっと、顔を覚えて笑顔のひとつでも見せてくれるわね、とか心でにんまり笑いながらさあ。
そしたらなぜか、客もその彼も、助けてあげた私をおどおどした目で見るじゃない?何かしら、と不思議に思いながら手元見たの。そしたらね、私がコーヒー拭いてるの、ハンカチじゃないの!なんだと思う?ダンナのトランクスよ!お気に入りの男の子の前で、カバンからパンツ出して、パンツでテーブル拭いてたのよ!悲惨よ、悲惨過ぎると思わない?2度とあの店行けないじゃない、私!
ぎゃははは、と30間近い自称新妻3人が、テーブルに頭をごつごつぶつけながら笑うさまは、さぞかし奇天烈であり、はた迷惑だったに違いない。
けれどそのとき、私とひまわりの抱えていた、重く湿った漬物石のような暗い気分は、一瞬にして取り払われていた。
昔から知っている、つばきの不思議な力がそれだ。まるで、凍える寒い日の一杯のココアのような。

2002/10/25/FRI
-10・11月のテーマ『今だから言えるゴメンナサイ』-
[運命の出会い]
小さなころから、なんでも拾ってくる子供でした。
犬、猫、古ぼけた椅子、海辺の石ころ…
小学校2年くらいのころ、道端でなぜかミドリガメを拾いました。乾いたアスファルトの上をのたのたと歩いていたので、小さな手でひょいと持ち上げてみると、カメは手足をひっこめることなく、目をしょぼしょぼさせてじっとしています。そのカメを手のひらに乗せたまま、私は家に帰りました。
玄関のドアを開けて、ただいまー、カメ拾っちゃったー、と言ったか言わないかは覚えていませんが、それを知った母親は怒ったのなんの。
「もう、また変なもの拾ってきて! この前のカタツムリだって、長続きしなかったじゃない」
夏、弟がクワガタを飼っていたアクリルの水槽を出してきて、カメを入れました。
餌にするために煮干をほぐしたり、川から砂利を拾って来たり、せっせと世話をしました。なにか名前をつけていたような気がするが思い出せません。ときどきは水槽から出して板張りの廊下を歩かせ、飼い猫とご対面させて遊んだりしていました。
そんなふうにかいがいしく世話を焼いていたにもかかわらず、カメはどんどん弱っていきました。
そのおじいさんのようなしわくちゃ顔に、明らかに死相が浮かび始めると、私は恐ろしくなって水槽からカメを出し、手に握ったまま外に走っていって、近くの川に放して(捨てて)やりました。
カメは出会ったときと同じように、しかし数段病みやつれた様子で、のたのたと草かげに消えていきました。
ああ、でもとりあえず、よかった。きっと何かの病気にかかっていたんだろう。
私はほっと安堵のため息をつき、その場を去りました。
そんなことはすっかり忘れて大人になった私は、あるときなんのきっかけか、「カメの飼い方」という本を書店でパラパラと立ち読みしていました。そこで、大変な事実に気がついてしまったのです。
『カメの飼い方 まず、水槽に砂利と大きめの石で岸を作ります。それから、少し水を入れて水辺をつくってやりましょう』
しばし呆然としました。
黄色い帽子をかぶった小学生の私はあの頃、まるで金魚を飼うように水槽に水を入れ、カメを飼っていたのです。魚類も爬虫類も区別もつかない年頃。というか理科に全く興味のない子供に拾われ、溺死させられかけたあのカメが、ただ不運だったと言うほかありません。
哀れなカメがあっぷあっぷと水面を苦しそうに泳ぐのを見て、「なんだか元気がないなあ」と心を痛めていたなんて、無知というのはオソロシイことだと、我ながらつくづく思ってしまいます。
ミドリガメさん。
あのときは殺しかけちゃってゴメンナサイ。
無事に天寿を全うされたことを祈っています。

2002/10/8/TUE
[ふたりのかなしみ]
彼女には親友がいた。
親友が結婚し、妻を持ってからは、家族ぐるみのつきあいが続いていたが、ある日突然、妻が彼女に対して嫉妬の心を燃やし始めた。
彼の妻は彼女に悪戯電話をかけ、彼女の職場や友人に怪情報を流し、夫の身辺に異常な関心を持ち始めた。
極端に照明を落とされたバーで、彼女はひそかに親友と落ち合った。
「妻はまるで違う人のようになってしまったよ」
「しばらく会うのはやめようか」
祈るように合わせた手の先で、眉間のあたりを支え、彼は静かに目を閉じている。
「今きみから遠ざかってしまったら、妻はなおさら何かあったと思うだろう。
それに、もしきみがいなくなっても、僕に対する妻の疑惑は消えないよ」
彼女と親友は、ある仕事で知り合った。彼らはそれぞれ別のチームのリーダーとして参加していた。 難しいプロジェクトを成功させるために、強引な手段を取ることをいとわなかった彼らは各々のチーム内でやがて孤立し、プロジェクトの行く末も危機に瀕した。そんなときに二人は出会った。意気投合し、タッグを組み、劇的ともいえる復活劇を演じたのだった。
親友を大切に思う気持ちは彼女も同じだったが、度重なる嫌がらせにストレスはたまる一方だった。一方的に理性を失った彼の妻に、怒りも覚えていた。
「私も、あなたを失いたくはないけれど、このままでは生活が立ち行かなくなるわ。
あなただってそうでしょう」
「僕もいろいろな方法を考えたよ。だけど僕は、10年後の妻を愛しているかは自信がないが、10年後もきみを必要としていることは確かなんだ」
まるでありきたりな不倫カップルの会話のようだと彼女は思いながら、試しに男の手を取ってみた。そうして手をつないだまま、店を出て、裸で抱き合える場所へと向かった。
彼女はシーツにくるまりながら、服を着ているときとかわらない穏やかなひややかな声で隣りの親友に尋ねた。 どう?何か変わった?
「不思議だね。やはり妻に向かっている気持ちはきみには抱けない」
「そうでしょうね。私もよ」
「それを知ることができてよかったよ、今日は」
「あら。あなたはそういうつもりだったの。私は違うわ。
自分がやってもいないことで嫌がらせを受けるなら、その疑惑を事実にしてやろうと思ったの」
たくましいね、と親友は笑った。
そうして二人は、異性であるというだけで非難されてしまう二人の友人関係をかなしみ、
こんなに必要と感じているのに、恋とか愛とか呼ばれるもので結ばれない男と女である自分たちをかなしんだ。

2002/9/26/THU
[夢と小説]
夢の中で私は、笑っていいとものテレフォンショッキングに出演していた。
しかもゲストではなく、病気で倒れたタモリさんの代わりである。
私はあの細長いテーブルに座っていて、目の前にはマイクとメッセージのメモと電報の束があり、左側にはゲストへの花の数々が飾られている。そして、とりまくのはたくさんの観客の目。
ゲストとのトークを円滑にするため、話題が箇条書きされたメモをスタッフが渡してくれる。
そしてゲストの窪塚くん(なぜ!特に興味もないのに!)を迎え、メモを見ながら楽しいトークをはじめようとするが、なんと、そのメモには別の俳優についての情報が書かれている。
彼についてなんの予備知識もない私は愕然とし、頭は真っ白で話すこともしどろもどろ。
ああ、どうしよう、どうしよう、話題が続かない…
とパニックに陥っていたところで目が覚めた。
そして私が真っ先にしたことが、その前の日のゲストが窪塚くんに残しているはずのメッセージのメモだった。
メモ、メモ、メモはどこだ?さっき見かけたのに。
布団から抜け出て、悩みつつごそごそしながらふと気づいた。
あれ?何やってるんだ?
直前まで夢を見ていて、覚醒した瞬間の、あの奇妙な思考回路。
この混乱が何かに似ていると思ったら、アレだった。
今、自分史上最高長い、小説を書いている。
ウェブマガジンで短編小説を書いていたけれど、何の気なしに長編にのりかえた。
今まで書いたこともないのに、突然。
しかも、苦手な恋愛もの。
ウェブマガはあくまで趣味の範疇でしかないけれど、公開してる以上、はいやめました、と、中断するわけにもいかない。
どうしよう。楽しみは一瞬にして悩みの種に。
ところが、毎日毎日登場人物のことを考えているうちに、無意識でも彼らが頭の隅っこに常駐するようになってしまった。
私の行動に、彼らが「自分ならこうする」と意見を述べる。左耳の後ろ側が、だからいつもざわざわと騒がしい。
キャベツを千切りにしたり、キッチンのタイルを拭いたりといった作業で頭を空っぽにしていると、彼らがやってくる。
まだ文字にしていないことがらたちを勝手に語り始める。彼らの独りごとが終わると、それらをうまくつぎあわせるエピソードが他になかったか、今度は私が自分の引き出しを覗いて探してみる。彼らの過去にもっと決定的な何かがあったはず。うーん、うーん、濡れタオルの最後のひとしずくを絞り出すような気持ちで。
そしてはっと気がつく。
今私が見つけようとしていたのは、最初からありもしない記憶、存在しない彼らの思い出だということに。
切りすぎたせんキャベツを呆然と見やりながら、実在と空想のニューロンがぐるぐるにもつれている自分の脳みその不幸を哀れむ。
そうそう。この感じ。
そういえば最近、今までちっともなかった恋の悩み系の相談メールをちらほら受け取るようになった。
うーん、そう言われてもアドバイスするほどの恋愛経験は私にはないのよねえ…
腕組みをしてうなっていると、耳の後ろに住んでいる他人がああだこうだと喋り出す。
メールの差出人と、彼らが勝手に共感している。私をとばしてつながっている。
夢と現実をつなぐ細い糸で。
ものを書くって、不思議なことだなあ、と、しみじみ思う。

2002/9/9/MON
[最近の私]
朝、グリーンの水やりにベランダに出ると、もつれるようにはしゃぎあうランドセルの一群が小道を走り去っていくのを目にし、ああ、夏休みも終わっちゃったんだなあ、と感じました。
子供の頃、私は理科の宿題が大の苦手でした。
苗から育てた花の鉢を、夏休みの間家にもって帰り、観察日記をつけることになっても、私の日記はいつもこんな感じ。
「元気がなくなってきました」
「水をもっとたくさんやりました」
「葉っぱが茶色くなってきました」
「枯れました」
「まだ枯れています」
教室で飼っていたミドリガメの水槽に、水をあふれるほど張ってあやうくカメさんたちを溺死させそうになったのも私でした。
そんな私も今ではベランダ菜園をちまちまと作り、そのうえ今年の夏からは半強制的に持ち帰らされたメダカとも、なんとかうまくやれるようになりました。
熱しやすく冷めやすい私ではありますが、相手が生き物になるとそう簡単に放棄するわけにもいかず、部屋の掃除はろくにやらないくせに、水槽の水換えだけはこまめにやったりしています。
フィルターもポンプもなにもないガラスの器に石ころと水草を入れているだけなので、夏はすぐに水が濁ってしまうのです。
最近ではちょっと時間があると、水槽にじりじり這い寄っていって、体育座りでじっと水の中で元気に泳ぐメダカちゃんたちを見ています。
メダカにはもれなくタニシもついてきていて、餌やりのときにはタニシがいちばんに水面に上がってきてぱくぱくと口を開けます。かなりグロい光景ですが、それなりに情もわいてくるのだから不思議です。
メダカは3匹いて、大きい順に名前が「大ちゃん・中ちゃん・小ちゃん」です。ひねってません。
どうやら中ちゃんがオスらしく、大ちゃんはその男らしい名前に似合わずじゃんじゃん卵を生み続け、生んだ端から食べています。
今朝はなんといちばん大きなタニシが脱走し、水槽のそばにコロリと乾いて転がっていました。
きっともう死んでるだろうと思いつつ、また水の中に放りこんでおきましたが、しばらくするとなにごともなかったかのようにぼよぼよ水中散歩をはじめました。
ちぇっ。可愛くないくせに手間ばかりかかるヤツです。
つい先日、実力以外の要因で、本来私に来るべき仕事が他の人に回される(そしてその内幕が当の私に明かされる)という、非常にショッキングな出来事がありました。
暑さと落ちこみとで動くこともできず、しばらく水槽のそばで膝を抱え、じっとメダカたちを目で追っていました。
餌をやればわいわい争いながら水面を暴れまわり、食べながらおもしろいようにつるつるとおしりからフンを出します。私がガラスに顔を近づけると、わかっているのかどうなのか、近寄ってきてウーパール―パーのようなマヌケな顔で見つめてきます。
大ちゃんのしたフンがゆるゆると沈んでいくのを、餌と勘違いして中ちゃんがぱくりとくわえ、「なんじゃこれ、餌と違う!」と急いで吐き出すのを、
「がはは、ばーか」
と笑いながら、次がんばりゃいっか、と立ち直る、メダカ並みに単細胞な最近の私です。

2002/8/30/FRI
[美味しいお茶]
知人から贈られた、見た感じ値のはりそうな緑茶を思いつきに淹れてみた。
まだ熱気がべたべたと肌にまとわりつく、残暑の夕方だ。
汗を額ににじませながら熱いお茶を飲むのも悪くない、と、私はなかなか進まない仕事を頭からさっぱりと追い出した。
湯気で頬をぬらして湯呑を覗きこむと、白い陶器の内側が、お茶の若草色をほのかにうつしてとてもきれいだ。
以前働いていた職場の上司は、よくお茶を飲む人だった。
女性にお茶を頼むのが当然という常識を持っているらしく、彼は毎日何度もふいに顔を上げ、「お茶お願い」とのん気な声で言っていた。
先輩の女性は、お茶を頼まれるたびにばん、と勢いよく両手を机について立ちあがり、どたどたと足を鳴らして給湯室に向かっていた。余程わずらわしく思っていたんだろう。私に「引き継ぎ」してからは、「お茶」の声にもぴくりとも動かなくなった。
私はお茶汲みが好きだった。
もちろん、忙しいときに頼まれると腹も立つ。
私が男性を甘やかしている、と批判する女性もいた。
でも、好きなのだから仕方ない。
ときどき、来客用の高級玉露をこっそり自分の湯呑にも淹れることができる特典もある。
幸いだったのは、上司が鈍感なタイプではなく、私が髪振り乱して仕事に追われているときは、「どれどれ」と隠居爺のように自分で湯呑を手に立ち上がってくれるような人だったことだ。
もっと複雑な環境にいたら、私もこうは言っていられなかっただろう。
ごくたまに、先輩も来客のためにお茶を淹れることがあった。あるとき、面倒そうにポットの前に立つ先輩を見てはっとした。
片手を腰にあてて、重心を片足にかけた「休め」のような姿勢で彼女は急須を湯呑に傾けていた。その背中から、「こんなことするのかったるい〜」というオーラが出ているのがはっきり見えるようだった。
私はどこへでも座りこんでしまうし、どこででも居眠りができるがさつな人間だ。
小さい頃、お箸の持ち方が悪いと母にぴしゃりと手の甲を叩かれ、小学校の担任の先生は授業中肘をつくなと、まわりの大人は口うるさかったが、残念なことに彼らの努力はいまだ身を結んではいない。
けれど、美しい身のこなしをするひとになりたいと、ずっと思っている。
書道を習っていたが、猫背で筆を握る私のそばで、背筋を伸ばし、指先をきっちりそろえてきれいな字を書く友達のマリちゃんが憧れだった。昔も、今も。
上司のためにお茶を淹れることが苦にならない理由がもうひとつあった。
彼はお茶をデスクに置く私に、かならず手を止めて目をあわせ「ありがとう」と言っていた。もちろん私だけではない、不服そうな表情を顕わに片手でお茶を置く先輩にも、頼まれた書類を仕上げて持ってくる部下にも、誰にでも。
そういえば当の先輩は、私が飲み物を差し入れても「あ、ごめん」とあごを揺らすだけで決して作業の手を止めることはなかった。
その上司にはいろんなことを教えてもらったけれど、いちばん心に残るのは、あの心のこもった「ありがとう」かもしれない。
そうはいってもなかなか、美しい所作を年中やっていられる精神力は私にはない。
やれやれと、前かがみになっていた背筋を伸ばし、丸っこい湯呑の側と底を両手で包み持って口元に運ぶ。
美味しい。舌を刺激する苦味の後ろから、ふんわりとした甘味が頬の裏っかわをなでていく。
透き通った翡翠色の緑茶をふうふう飲んでいると、頭の芯で凝り固まっていた何かがすうっとほどけていくようだ。

2002/8/9/FRI
[花の名前]
3年前の、ちょうど今頃でした。
病院のロビーというのは、低いざわめきも適度なひんやり加減も、どこか海の底に似ています。 いのちの気配はそこここにあるのに、なぜかひとりっきりのように心細くさせ、重く質量を持った空気が私をここからはじき出そうと押し戻してくる、そんな場所です。
エレベーターを降り、その空気をまっすぐ突っ切って、私はエントランスに向かいました。ガラスの自動ドアが開くと、熱気と蝉の声がいきなり押し寄せてきて、寝不足の私をぐわんと揺さぶりました。 あたりにはタクシー特有の排気ガスのにおいがたちこめています。
ずらりとならんだ黒い列の一番前に停まっている中型タクシーに乗り込むと、本格的にめまいが私を襲いました。眉間をぎゅっと指先で押さえながら、家の所在地を運転席に座るあなたに説明し、深くシートに身体を沈めました。
よく冷えた車内から見る外の景色は、まるで熱帯魚の泳ぐ水槽のようでした。ガラスの向こうは明るく音もなく、カラフルな車や人がすいすいと行き来しています。忙しそうに、楽しそうに、窓の外の世の中は「動」に満ちあふれていました。
それは、私にはとても受け入れがたい世界でした。そのとき私の世界の中心にあったのは、ベッドをぐるりと取り囲んだ四角い病室。その白いベッドの上で、大がかりな機械に助けられかろうじて弱々しい息をしている小さな身体。それだけでした。
ベッドの脇のチューブからは、おしっこが少しずつたまっていっているのに。
力の入らないしわしわの手の指の爪は、驚くほどの早さで伸びているのに。
それなのに、まぶたは開かず、懐かしい声は発されることはなく、その身体はゆっくりと確実に死へと向かっていました。そう遠くないある日、ぱちんと電灯のスイッチを切るみたいに、呼吸と鼓動が止まることを、動かない体を見つめながら家族はしぶしぶ納得していきました。後から考えてみれば、それは死にゆく人が私たちのために準備してくれた、哀しい真空の時間でした。
ベッドのそばに腰掛けて、狭い部屋に妙に大きく響く呼吸音を聞きながら、人の幸せの分量は平等ではないんだな、と私は考えていました。考えるほどにその思いはふくらんでいって、身体の内側でぱんぱんにはちきれそうになっていました。これからの私の人生に、こんな哀しい出来事がまだまだ山ほど用意されているだろうことを思うと、タクシーの窓から見える明るい景色が嘘くさく、ただただ腹立たしかったのです。
「あの木はなんていう木でしょうかね」
景色から顔をそむけ、硬くこわばった目のまわりをもみほぐす私に、あなたはのんびりとした口調で尋ねました。少し面倒に思いながら信号待ちで停まった車の左側を見ると、こじんまりとしたブティックのショウウインドウの前に、小さな赤い花のついた木が1本ありました。黄味がかった緑色の丸っこい小さな葉が、こんもりと密生しています。
「マロニエでしょうか。でもマロニエの花は赤くなかったような気がします」
「僕は植物には詳しくないし、こうして遠くから見るだけなので、ずっと何の木なんだろうと思いながら、知らないままなんです」
白髪の混じった、散髪に行ってからそう時間がたっていないだろうさっぱりしたうなじを見ながら、ぼそぼそとしたあなたの声を聞いていました。
「花が好きなわけじゃないんですが、あの木だけはどういうわけか気になるんです。この季節になると、いつ咲くかなあと思いながら、毎日信号待ちのたびに見てるんです」
ブレーキからアクセルへとペダルを踏みかえ、車をゆっくりと発進させながら、やわらかな丸みをたたえたあなたの声は話しつづけます。
「店の人もあんまり手入れをしているふうには見えないんだけど、この時期になると、思い出したようにああして花をつけるんです。毎年かならず」
視界の後方へ消えていく赤い花をつけた木を見送りながら、私は毎年、あの花の咲くのを心待ちにしながら車を走らせ、ここを通るたびに、乗客に花の名前を尋ねるあなたの姿を思い浮かべました。 毎年変わらない花。変わらない質問。わからないままの花の名前。
どうしてだか自分でも説明できないのだけれど、そのときのあなたとの会話が、疲れきってよれよれになり、太陽に背を向けて暗い影にばかり目をとられていた私の心を、わしづかみにしてグイッと違う方向にむけてくれたのです。
あんなやさしい声に、どうしてそんな乱暴なまでの力があったのかはわかりません。
私は今まで見つめていた影の暗さを忘れるくらい、強烈に幸せだった記憶もあることをそのとき思い出したのです。
真夏に咲く赤い花。
あなたは今年も花が咲くのを心待ちにしているのでしょうか。
そうして後ろの座席に座った乗客に花の名前を尋ね、人生の繰り返しの楽しさと哀しさを、そっと教えているのでしょうか。

2002/7/26/FRI
[意地悪]
私は意地悪。
あの子のことをチビと言い出したのは私。
だって小学校のときからずっと、小さい順の一番前だったんだもの。
「マエナラエ」だって、いつも腰に手をあててたんだもの。
中学に入って、いまさらぐんぐん伸びたって、呼び名は変えてやんない。
骨が鳴るほど急に背が伸びたって、チビはチビ。
部活で丸ボウズにされたあの子を、最初に笑ったのも私。
なんだかんだと理由をつけて、夏のぬるんだ自分の瓶牛乳を、
無理やりあの子に飲ませていたのも私。
だって、拒否しないんだもの。よわっちい男子。
私は意地悪。
あの子のことを好きだという1年の女子を連れてきて、目の前で冷やかした。
実行犯は私じゃないけど、言い出しっぺはやっぱり私。
恥ずかしがって彼女は泣き出した。あの子は怒ってこんなこと止めろと言った。
怒鳴りながら彼は私をまっすぐに見た。
「サイテーだ、おまえみたいな女」
そう言って涙を拭いている1年の女子に「ごめんな」と謝った。
私は意地悪。
「やっぱアンタ、その子のこと好きなんじゃないの!」
彼はもう私の方を見なかった。
やりすぎやりすぎ、そう言ってカヨちゃんが私をなだめた。
私の顔が真っ赤になってるのを、カヨちゃんは多分、怒ってるせいだと思っただろう。
「なんでオマエはあいつにあんなに嫌われてるんだろうなあ」
あの子の友達が私をちらちら見ながら言う。
嫌ってなんかない。いつ嫌いだなんて言った?
私は意地悪。
あの子のことが好きなのに、もうひとりの自分がいつもあの子に意地悪をする。
あの子を好きな私自身まで傷つける、意地悪なもうひとりの私。
「サイテーだ」とあの子は私に言った。
あの子が私のこと、最初っからなんとも思ってないことは知っていた。
それからもうひとつ、
本当は「あの子」なんてもう呼べないことも。
すっかり私の背を追いこして、
意地悪な私を無視して通りすぎる、
私の好きなあの人。
なんとも思われないなら、嫌われた方がよかった。

2002/7/10/WED
[ある夏の恋]
バラエティー番組なんかでよく、箱の中に手を突っ込んで中に入っているものを当てる、というゲームがある。手を突っ込む本人は箱の中身は全くわからないのだが、観客や視聴者の方からは中身が何か、よく見えるようになっている。
ゲストは箱の上部のまるい穴からそうっと手を突っ込んで動かし、中にあるはずの物体を文字通り手探りで追う。
箱の中身はイグアナだったり、たわしだったり、カエルだったりする。
なんでもないもの、たとえばこんにゃくの手触りに怯えてきゃーきゃー騒ぐゲストを観客は笑い、ワニのしっぽのような、かなりアブナイものを平気でつかんだりするゲストに視聴者はヒヤヒヤ、手に汗を握らされる。
彼女のあの年の恋は、そのゲームに似ていた。
出会いは海辺だった。
台風の直後で海はにごっていて、強風のせいで波も高く、海で泳ぐにはあんまりいい日じゃなかった。海水浴客もぱらぱらとまばら。天気のいいわりには、うら寂しい夏のある日の白い浜辺。
お昼どき、海の家のパラソルの下で、友達と二人、焼きそばを食べていたら彼ら二人に声をかけられた。
背の高い方の彼に、彼女の目は釘づけになった。真っ黒に焼けた筋肉質のからだが、海水と汗できらきら輝いていた。砂から照り返す光線のせいで、彼の目の白い部分がやけに青く見えて、それがなんだかとてもセクシーだった。
ビーチバレーを一緒にして、着替えて晩ごはんを食べに行って、それからカラオケに行って2時間歌った。電話番号を聞かれたから、素直に教えた。聞いてくれなかったら多分彼女の方から尋ねていただろう。
いかにも遊んでそうな人、気をつけた方がいいよ。
友達は口をそろえて、彼女に忠告した。
彼女といるときはたいてい、電話が鳴っても出ようとしない。
彼女が電話をかけたときも、やっぱりほとんど出てくれない。
だから彼女自身もうすうすわかっていた。傷つかないように、彼には深入りすまいと思っていた。
それなのにそんな警戒心を笑うみたいに、彼は気軽に彼女を実家に連れて行ったりする。
彼によく似たお母さんに優しくされて、彼女はほんの少しでも彼の気持ちを疑っていた自分を恥じてしまう。
彼を疑う方、信じる方、シーソーのように気持ちは大きく揺れる。
彼の心は、自分だけ中身の見えない箱のようだと彼女は思った。
「彼が女と歩いているのをあそこで見た」
「高校からつきあってる彼女がいるらしい」
あれこれ忠告をしてくれる周囲の人たちには、きっと彼のいろんな部分が彼女より見えてるんだろう。でも彼女はただ、やみくもに、箱に手を突っ込んでかきまわすことしかできない。さぐる指先に触れてくるものは、いやな想像もかきたてるけど、期待させてくれるときもある。
こわい。
でも触って確かめなければ。
そう思いながら、彼女はまだ伸ばしたことのない部分へ、おそるおそる、手をさしむける。
そんな彼女を、まわりの私たちは息を殺してみている。
どうか、どうかそのきれいな指先を傷つけないで、と祈りながら。
またある人は、彼女のその手のぶかっこうな動きを、フフフと嘲いながら。
夏が終わった。
引いていく波のように、彼の気配が彼女の周りから消えた。
ずいぶんと泣いていたようだったけれど、シーソーはまだ揺れ続けていたようだったけれど、彼女は自分の意思で箱から手を引っこ抜いた。
そうして、私たちのいる、箱の中身が見える側にやってきて、くすりと笑った。
「みんな私のことバカだなーって、見てたんだろうねー」
でもバカになれない恋なんて、箱の中身が最初から見えてる恋なんて、ちっともおもしろくないじゃない。ドキドキしない恋なんて。
私は心の中でそう答えて、眩しい彼女の笑顔に微笑み返す。

2002/7/1/MON
[東方美人]
男運が悪い。
一緒に買い物をした後、おいしいパスタを食べながら彼女はそう嘆いた。
こってりパスタをもぐもぐ食べて、のどが渇くのか水をがぶがぶ飲みながら、どうしてこんなに男運が悪いのか理解できない、といまいましげに首を振る。
こちらからしてみれば、どうしてあんな男を選ぶのか、アンタの選択眼の方が理解できない、とも思うのだが、そのうちの一人は私の友人の一人でもあったので、あんまりきついことも言えない。
女グセが悪いのと別れたかと思えば、今度はギャンブル好きのとつきあい、それに愛想を尽かしたら今度は妻子持ちだったり。
仕事や友人関係では要領の悪さをちっとも感じさせない彼女が、こと恋愛に関しては連敗続きだ。
ほんとに、どうしてだろうねえ、と二人頬杖をついてため息をつく。
「でも」
と思いついて私は言う。
「彼と別れるたびに仕事的にはかなり成功してるんじゃない?今はそういう時期なのよ、きっと」
「まあねー、私自身そんなに恋愛にのめりこむ方じゃないからかなー。がんじがらめになってどろどろーってのはないからね、今まで。つきあう相手の性格も、結婚向きじゃないのばっかりってのを除けば、そんなに欠陥あったわけじゃないし」
がーっ、と変な声を上げながら、すっかり片付いたテーブルに彼女は大げさに突っ伏す。
水ばかり飲む彼女に辟易して、私は食後に何か飲もうと提案し、メニューを開いて飲み物を選ぶ。
「へー、流行りだからか、イタリアンのお店にもジャスミンティーがあるんだねー」
そういって彼女はジャスミンティーを注文した。私はホットコーヒー。
彼女は汗をかいたグラスから、ちゅうちゅう子供みたいにストローでお茶を飲んでいる。べっこう飴みたいな、涼しくて懐かしい色のジャスミンティーを見ながら、私は彼女に言う。
「そういえば、東方美人ってお茶知ってる?」
「ううん、なにそれ。飲んだら痩せて美人になるの?」
「違ーう。烏龍茶の一種なんだけどね、独特のいい香りと味が人気なの。まあ、そのネーミングのせいもあるだろうけど。で、その東方美人ってお茶はね、育てるときウンカに芽を噛ませることで、その味と香りを出すのよ」
「ウンカ?」
ストローに口をつけたまま、彼女は美しい眉をひそめる。
慰めるために思いついた話題がかえって墓穴を掘ってしまいそうで、慌てて私は言葉を続ける。
「そう、あの害虫のウンカ。要するにね、あれよ、美人とかいい女ってのは、若いうちにウンカに噛まれるような痛い思いをするもんなのよ。男運が悪いのも今だけで、そのうちアンタは人も羨むハッピーな東方美人になるわけよ」
フォローにも何にもなっていないなあ、と冷や汗をかきながらコーヒーを一口飲み、彼女の顔を窺う。特に気を悪くした様子もなく、彼女は私の話にウンウンとうなずいている。
「なるほどねー、東方美人。今度飲んでみよう」
それから、ほっとした私をちらりと見て、にやっと口元に笑みを浮かべて彼女は言った。
「しかし、人のオトコをウンカ呼ばわりするか?普通」
あはははは…、とごまかし笑いをするほかない私に彼女は、「ここ、アンタの奢りね」と言い捨てる。長年の悪友である。

2002/6/11/TUE
[突然の雨]
気のおけない男友達と久しぶりにあって、気分よく酔った、駅へと向かうその帰り道、突然音もなく雨が降り出した。
天気予報は晴れと言っていたのに、うそつき。
すっかり陽気になった私たちは、細かな雨粒をしとしとと頭上に注ぎ続ける暗い空に向かって悪態をつく。さっきまではぱっきりと光っていた店のネオンが、今は水たまりに映る景色みたいににじんでゆらゆら揺れている。背広のおじさんたちのダッシュにせかされるように、私たちも小走りになって駅への道を急ぐ。
電車で帰る男友達は、後ろ向きで歩いてこちらに手を振りながら、駅の構内に消えて行った。
彼を見送った後、私がたどりついたタクシー乗り場には、思ったとおり長蛇の列ができていた。
それもこれも、雨のせい。列の最後尾につき、私は恨めしく空を見上げる。
霧のような雨が私の体をじっとりと濡らしていく。雨の降りはじめに特有の埃っぽいような湿った匂いと、タクシーの排気ガスの匂いがまじりあって鼻をつく。陽気な気分は一気にどこかへ消えていき、楽しい時間を過ごした後にやってくる、ひときわ寂しい気持ちが私の体の内側を満たしていく。
ぼんやりと駅のロータリーを縁どる車のライトを目で追いかけていると、髪を濡らす雨の気配が消えていることに気がついた。頭の上に目をやると、黒っぽい傘が、私の体を雨から防いでくれている。傘は私の背後から差し掛けられていた。体をねじって、後ろに並んだ人を見る。
ネクタイをしめた、若いサラリーマン。がっちりした肩幅に似あわない、さわやかな目もと。ちょっと濡れた前髪が額に垂れて、子供っぽいような、セクシーなような、不思議な印象。振りかえった私に、彼はちょっとうなずいてみせた。それはおそらく、傘に入れてあげてるよ、という意思表示。そして次の瞬きの後、彼はもう違う方を向いていた。
ありがとうございます、と言いそびれ、体を前に向けなおして、私は居心地悪く佇んでいる。素敵な人が、傘の中に私を入れてくれている、でも、それだけ。話しかけたら、どうなるだろう。けど目をそらされたもの、かえって迷惑かもしれない、ただ、濡れた私を気の毒に思って、傘をほんの少し、傾けてくれてるだけ。頭の中でぐるぐると、いろんな思いが回り始める。頭上の傘にあたるぱらぱらと軽い雨音が、やけに大きく聞こえてくる。
体の神経は全部、背中に集中している。彼の傘が私を冷たい雨から守ってくれている。列が少しずつ前に動いて、数歩前に出るたびに、足元に、彼の黒い靴も見える。ときどき、咳ばらいをするのがすごく間近に聞こえる。心臓がどきどきうるさく打っている。
他の人から見たら、恋人どうしに見えるんだろうか、さっき私を見て、彼は私のことどう思ったかな、そういえば髪の毛、みっともなくなってないかな。慌てて頭に手をやり、乱れてないかさわってみる。さわりながら可笑しくなる。変なの、こんな気持ち。うつむいて少し笑う。
雨を狙って集まってきたタクシーのおかげで、待ち時間はそんなに長くなかった。間もなく、私の前に停まった黒い車の後部ドアがぱかりと開く。今度こそ言い逃さないように、私は急いで後ろを振り向く。
「ありがとうございました、助かりました!」
背の高い彼は私をきょとんと見下ろして、それから、私の勢いのつきすぎた口調が可笑しかったのか、ぷっと吹き出した。
「どういたしまして、気をつけてね」
車に乗り込んだ私に、彼はカバンを持った手をあげて軽く振った。
規則正しく左右に振れるワイパーごしの、濡れた夜の街並みをぼんやりと眺めながら、私はふかふかのシートに埋もれて、突然の雨も悪くないなあなんて、にやにやしながら考えている。

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